こつぶがゴロゴロ。

主にネタばれ感想を呟いてます。

ヒックとドラゴン  聖地への冒険 の感想

 ※初っ端から2と3のネタばれ全開です。前半は批判です。

 


 今月、ヒックとドラゴン3が公開されたと聞いて、私は下記の文章を書きました。

 

 私は、ヒックとドラゴンが大好きです。
1は勿論、テレビシリーズのDVDだって全部揃えたし、ネットフリックスに入ったのも、元々は「新たな世界へ」のため。
だから、完結編となる3も都合がつけば近いうちに映画館で観たいと思ってます。
 
ただ、そんな私でも2は未だにDVDを購入してません。
何故かといえば「つまらなかった」から。
単純な理由です。

 1の倒すべき敵は凶悪で強大なドラゴンでした。
2の場合、1よりスケールのでかいドラゴンは出てくるのですが、真の敵はそのドラゴンを操る人間です。
その悪役の人物が、操るドラゴンに見合う程の魅力的なキャラクターだとは、私にはどうしても見えなかったのです。
その為、強大なドラゴンと戦うシーンにもワクワクできませんでした。

また、ヒックの母親とドラゴンを捕獲する新キャラ(最後にストイックのドラゴンを譲り受ける男性)も魅力の薄さを感じてしまい、「ただストイックを殺すために生み出されたようなキャラ」という印象がぬぐえませんでした。
これならストイックを殺すにしろ、2人を出さない方が物語が引き締まったのでは?と思います。

 その他にも、ヒックとアスティの1からの急激なイメチェン(外見も内面も)等、ちょいちょい戸惑うところがあった為、私の中で「2は無かったことにしてもいいかな」という判断になったのです。
 
 でも、去年頃に海外版のヒックとドラゴン3の予告を観て、敵が再び人間であることを知りました。
そして母親とあの男性が出てくることも。
また2のような感じになるのかな?と考えると、映画館に足を運んでまで観に行くのを躊躇しちゃう私です。

 ということで、せっかくの完結編なのだし、観たことを後悔しない為にも3の新たな敵は2より魅力ある悪役であって欲しいです。
そしてトゥースとヒックとその仲間達の能天気(これ大事)なやり取りを、なるべくたくさん見られますように。

 


 しかし、これをUPした翌日にすぐ削除してしまいました。
2で感じた不満は、3で解消されるかもしれないと考えたからです。
予告編を見る限りだと2と大して変わらない印象でしたが、それでも自分の思い違いであることを祈りつつ、希望を持っていました。


 そういう経緯を経て、今回ようやく3を観ることができたのですが。
結論から言うと、2よりは若干良よくなったけど1には遠く及ばない、でした。
映像は確実に1より豪華なんだけど、心に刺さるものが無かったのです。


 話としては、2から1年後の設定。
ヒックと仲間達が、ドラゴンをハンターから救出し続けた結果、バーク島はドラゴンでぎゅうぎゅう詰めに。
そんな時、ヒックは幼い頃に亡き父ストイックから聞いたドラゴンの聖地の伝説を思い出し、バーク島の人々とドラゴン達でその場所へ引っ越そうと思いつきます。
早速行動を開始するヒック達ですが、その裏で高名なドラゴンハンターであるグリメルが、捕えていたライトフューリーを囮にしてトゥースを殺そうと画策。
トゥースとライトフューリーは出会ってから急速に仲を深めていくのですが、ライトフューリーの方は人間に囚われていたせいもあってか、決してヒック達に近づこうとはしません。
今までトゥースとずっと一緒であることを疑わなかったヒックは、トゥース無しでやっていけるのかという懸念と別れの予感に不安になるのですが…。

というあらすじです。


 でも…う~ん。
何で今回もラストはドラゴンを挟んだ人間同士の戦いになっちゃうんだろう。
せっかくの完結編なんだから、1のように「驚異的なドラゴン対ヒック&トゥースと仲間達」という構図に戻せば良かったのに…。
原作が元々そういう話だったということなら、まあ仕方ないとは思うんだけど。
私的には、今回もラスボスが脅威的なドラゴンではないところに肩透かしを食らいました。
話としてはまあまあなのだけど、スケール的にはテレビシリーズをちょっと豪華にしたようなもので、映画レベルではないと感じました。

 

 一応、トゥースが恋をして自立を望んだ時、ヒックがトゥース無しで一人前になれるのか?というのは、ヒックの成長物語として避けて通れない要素なのは理解できます。
もしもメスのナイトフューリーが他のドラゴンのように身近にたくさんいたり、あるいはライトフューリーがヒック達との共生を良しとしたのなら、トゥースもヒックと一緒のまま居られたと思うのですが、そのどちらでもなければヒックがトゥースに独り身を強いるという歪な形になっちゃいますしね。
(この辺、日本のペット事情…室内飼いにも通じるところがあるなと思います。)

 

 でも、その結論が何故「『全ての』ドラゴンと人間はまだ共存できる段階ではない」に導かれたのかの理由付けが弱かったと思います。
ヒックはともかく、アスティを始めとするバイキング達もラストでその考えに倣ったのが唐突に感じて。
作中に彼らとペアを組んでいるドラゴンとの間に疑問や葛藤する描写を入れていれば、あのラストもすんなり納得できたと思うんですけどね。

 

 今回はグリメルという新たな敵も登場するのですが、彼は子供の頃、寝ていたナイトフューリーを殺したことからヒーローと呼ばれ、名のあるドラゴンハンターになったという、ヒックとは逆の選択肢を辿った人物です。
ナイトフューリーをこの世から一匹残さず消すことを信条としており、トゥースを執拗に狙う悪役ですが、前作のドラゴよりはマシだと思えたものの、やっぱりインパクトがイマイチで。
テレビシリーズの悪役だったアルビンやダガー、フライヤーの方がよっぽど存在感のある魅力的な悪役だったように思います。

 

 更に、2で登場したヒックの母ヴァルカと元ドラゴンハンターのエレットが引き続き登場しますが、相変わらず何の為に出てきたのか、存在意義の薄いキャラクターでした。
一応、「別世界でドラゴンと人間が邪魔されずに暮らせるか?」の問題にはヴァルカが、グリメルの説明はエレットが担当という感じで割り振られていましたが、申し訳程度に触れるだけ。
今回はスノットを無理やり絡めてこの2人のキャラクターを味付けしようと試みたフシも見受けられるのですが、中途半端に感じました。

 

 それと、ストイックが人間とドラゴンが争わなくなるために「ドラゴンの聖地」を探していた、という設定。
1のストイックを考えると「えっ?」となります。
だってあの時の彼は村に襲来するドラゴン達を根絶やしにする為、ドラゴンの巣を探そうと船出をしていた筈でしょ?
あのストイックがそんな平和的な解決策を望んでいたのか?と思うわけです。
せめて「ドラゴンを聖地に封じ込める為」に探してた、という理由付けか、あるいは後にドラゴンをぶっ潰す思考に変わっていった理由を描いていたのなら個人的に納得できました。

 

 私的に1の話でカタルシスを感じられたところって、トゥース含めたドラゴンとヒックの相互理解の過程と、ストイックを始めとするバイキングとドラゴンとの和解だったんですよね。
その話にあの音楽がカチっとはまり、相乗効果を生んで奇跡的な感動を生み出してたわけで。

2と3は「どうしても解り合えない人間との潰し合い」という構図なので、そういうところがなんだかなあと思います。

 

 重ねて言いますが、2や3で描かれた、「ヒックの成長物語」と「人とドラゴンの在り方を描く」というテーマ自体は否定しません。
ただ、「ドラゴンを守る人間VSドラゴンの害になる人間」という構造だとしても、ラスボスは強大なドラゴンにすることはできたんじゃないかと思っちゃって。
まあ、これはもう個人的な嗜好になるのかもしれませんね。

 

 …などと、初っ端から批判だらけになりましたが。
勿論良いところだって沢山あります。
トゥースは相変わらず可愛いし、トゥースとライトフューリーが嵐の中を飛ぶシーンも割と迫力があって綺麗だったし。
ヒックやアスティ以外にも、スノットやタフラフが目立っていたのも好印象でした(その反面、フィッシュの影が薄かったような…)
特にタフが呼ばれてない結婚式に2回参加したという台詞とか、ラフのズケズケとしたお喋りでグリメルがうんざりするところなど、「新たな世界へ」のエピソードと繋がってるのを示唆してるようで、クスっとできたり。
あと、アスティが「あなたのおかげで私は変われた」という台詞には、「そっかー、2からマスカラとアイシャドーをつけなくなったのはヒックの影響だったのか」と思えたり(違)

 

 また、私のように1のカタルシスを求めているのではなく、純粋にヒックの成長物語や人間とドラゴンの正しい関係性の行方を追っていた人にとっては、それなりに納得できる結論に導かれた物語だったのではないかとも思います。
グリメルを倒した後に1の音楽が流れた時は、流石に気分が高揚しました。
あの曲は本当に良過ぎる。

 

今回の「聖地への冒険」は、「人間はまだドラゴンと対等に共生できるほど熟した存在ではない」という結論を出したものの、「熟すればいつかまたドラゴン達と共生できる」という希望も残して終わりました。
早い段階で…ヒックが生きている内に、そのような時代が来るといいですね。
それを願いながら、私もテレビシリーズやNetflixのシリーズを観なおして、人間とドラゴンがイチャイチャしてた頃の時代を懐かしみたいと思います。
勿論、3の後日談(クリスマスのやつ)も含めてね。
あれ観ると3の後は、ヒックだけでなくバーク島の人達も、たま~にドラゴンと交流してるのかも?という解釈もできて幸せになれるのでオススメ。

FF7のクラウドについてのキャラ語り

 

 昔からドラクエとFF、どっち派?と聞かれると、いつも困ってました。
何故なら、私は根っからのMOTHERシリーズ派で、ドラクエにもFFにも思い入れが皆無だったからです。
(それでも、ドラクエは2と5、FFは4~9とタクティスを遊んだことがあります)

ただ、そんな私でもFF7だけは例外で、MOTHERに匹敵するだけの思い入れがあるのです。(コンピレーションは除外)

 

FF7を好きな理由は沢山あります。
音楽のスケールが世界観と話にマッチしていたり、戦闘シーンのテンポが初の3Dにしては恐ろしく良かったり、ストーリーの視点が人間ではなくもっと高次の…星の目線で設定されている所など。
他にも良いところは色々あるんですが、その中でも私ががっつりハマった理由は、やっぱり主人公のクラウドが魅力的過ぎたからです。
今はRPGに一切触れてないので最近の主人公の傾向が分からないのですが、少なくともFF7が発売された当時は、クラウドのような主人公は見たことがありませんでした。
それだけ目新しくインパクトの強いキャラクターだったのです。

では、従来のRPG主人公とクラウドの何が違うのか?ということになるんですが。
簡単に言うと、クラウドが経験した挫折は物語的に決してカッコイイものではない、ということです。


 彼は幼い頃、ニブル山でティファを助けられなかったことが原因で、しばらく自暴自棄になります。
これがまず最初の挫折。
そんな荒れた生活を送っていたある日、ふとしたことで英雄セフィロスの存在を知り、ソルジャーになることで挫折から這い上がろうとしました。

この時点までは、他のRPGにもありそうな設定です。

でもクラウドって、その後に努力してもソルジャーになれなかったという2度目の挫折と、ニブルヘイム事件で大事なものを守れなかったという3度目の挫折を経験しているところが凄くリアルだなと思い、彼に感情移入したんです。
 
まず、普通のRPGなら、挫折といってもほぼ無条件に世間の同情を買いそうな類のものだと思うんですね。
例えば国を守りきれなかったとか、特殊な出生のせいで差別を受けたとか。
挫折と言っても、決して恥ずかしいとか、情けないとかいう類のものではない。むしろ物語的としては、アクセサリーになりうるものです。
(勿論、実際にそんな目にあった方にはアクセサリーなんて失礼なことは言いませんよ。あくまでゲームシナリオについての話です)

でもクラウドの場合は、そういうものに比べれば本当に庶民レベルの、恥ずかしくて隠しておきたいと思う類の挫折です。
そういうところが従来の主人公とは違う部分だな、と思うのです。

 それに、普通の人の人生なんてよっぽど恵まれていない限りは、大きなこと些細なことあわせて挫折を繰り返していくでしょ?
誰だって世間に出て上のランクを目指せば目指すほど、挫折する確率はそれだけ高くなるわけで。

クラウドはそんな平凡で夢見る人達の挫折やコンプレックスを、リアルに表現したキャラだと思うんです。


そんな彼のいいところはですね。
何度挫折しても、それでも歩き続ける根性だと思います。

幼少時代はティファを助けられなくて、少年時代はソルジャーになれなかった上に故郷と大事な人達を奪われて。
そして貴重な青春時代に監禁されて廃人にされ、その場所から脱出できたと思うと親友(CCの動画を見るとそう見えなかったけど)が殺されて。
ゲーム開始後も、自分の隠しておきたかっただろう願望やトラウマを、ジェノバ細胞のせいで他人にまで曝け出す羽目になって。
それ以外でも彼の身に次々と理不尽な出来事が降りかかり。
仲間達の助けがあったとはいえ、それでも彼はよく前を歩き続けることができたなと思うんです。

弱音を吐いたり躊躇したりしてても、結局は前に進むことを選択するクラウドがカッコよく思えます。
ほんと彼ぐらいですよ、プレイヤーに対して心の恥部を「どうだー!」とばかりに堂々とありのまま晒す主人公なんて。


更に2.5枚目なのもポイントが高い。
初心者の館の説明は勿論、蜜蜂の館に入る気満々だったり、ギャルの背中にオイルを嬉しそうに塗ってあげたりとか、彼の台詞回しや行動にはユーモアがありますし。

多面性が奇跡的なバランスで表現されたキャラクターだと思います。


 ところで、彼についてよく言われるのが、「前半のクラウドは本当のクラウドか?」ってことですね。
今はコンピレーションも出てるので、それと併せて解釈するのが主流なのかもしれませんが、あえて私は原作のみで解釈したいと思います。

前半のクラウドの性格は、5年前の彼そのまんまだと思います。
仕草と経験はザックスを真似ているようですが(コピーしたというより、回想でザックスが兵士に教えていたソルジャーの仕草を実践してたのだと思われます)、5年前の母との会話を見てみると、前半のクラウドと変わらない口調だったので、性格に関してはザックスやセフィロスの影響はないと思われます。

前半の彼は、ただ「ソルジャーになった自分」をロールプレイング、又はシミュレートしているだけなのでしょう。

 後半になるとクラウドは自分を取り戻しますが、そのときの性格はどちらかというと気の優しそうな感じが出ていて、前半とは少し雰囲気が違っています。

 それは、彼が前半よりも成長したからなんだと思います。
弱かった故に幼い頃から固く心身を強張らせていたけれど、強くなった今ではそんな必要はなくなった。
きっと今まで強く力んでいた反動で、弛緩しちゃったんでしょう。

 だからED後は、徐々に前半のクラウドの性格にまた近づいていくんじゃないでしょうか。
勿論、ACやKHみたいなクラウドではなく、本編の前半クラウドに大人の余裕を持たせたような、穏やかな雰囲気を付加した感じになるのではと。

 

 でもさらに謎なのは、クラウドの頭の中に話しかける声の正体や人形モードだった時の人格はなんなのか、でしょうか。
声に関しては多分、過去のことを知っている割にはクラウドをそそのかすような口ぶりからして、断片化した過去のクラウドの意識とジェノバ細胞の意思が融合したもの、もしくは彼自身の記憶をコピーしたジェノバ細胞だと思います。

古代種の神殿などに出てくるちびクラウドは、間違いなく彼の大本の意識だと思うのですが、人形の人格は、エアリスを殺されたり人形だと言われて動揺している心の隙を突いた、ジェノバ細胞の「他人の記憶に合わせて変化する」能力…いや、というより「他人の言動に合わせて」と言った方が正しいのかも知れません、それが新しい人格を作ったのだろうな、と。
 これについては、いずれ気が向いたら語りたいと思います。


※ちなみに、この文章は大昔にサイトで書いたキャラ語りを加筆修正したものです。
本当は新しくクラウドを語り直そうと思ってたんですが、昔の方が熱のあるキャラ語りが出来ていたので、もうこれでいいやと思って。

スターがつけられない

 ここ最近、どこのブログさんもスターボタンが見つからないという、謎の偶然が続いていた。

訪問先が全部そんな感じだったので、最近はスターボタンを外すのが流行ってるのかと不思議に思っていたら、ただ使用しているブラウザが対応していないだけだったのが判明。

11月始め頃までは押せていたから、その後にはてなブログがバージョンアップか何かをしたのかなあ。

アリータ:バトル・エンジェルの感想

 漫画「銃夢」のハリウッド実写化の映画。
原作を途中までしか読んだことの無かった私ですが、PVを観た時は「銃夢の雰囲気を再現できてる!」と驚嘆しました。
しかも、以前からターミネーター1、2のジェームズ・キャメロンが監督するという話を聞いていた為(結局違う監督が撮りましたが)、これは漫画の実写化で一番出来の良い映画になりそうだと大きな期待を抱いてました。

 

しかし、実際観てみると「う~ん…」と思う箇所がポロポロと出てくるような、そんな映画でした。

 

 アクションシーンは迫力があります。
グリュシカや他のサイボーグとの戦闘ではCGならではの派手な演出が上手いし、アリータ達の全身を使った立ち回りが丁度よい「引き」で見られるように撮られているし、カメラの切り替えを多用してアクションのマズさをごまかすようなこともなかったのも好印象でした。

 

 その代わり、アリータを始めとするサイボーグを演じた俳優さん達の本来の運動能力もありのままに撮られていて、「人間離れした動き」という印象が薄れたのが残念です。
突きや蹴り等の派手な動きの後、空手の型のようにビシッと「止め」ることができていたら見栄えが凄く良くなった筈なんだけど、ブレブレだったのがイマイチでした。
一方で、元格闘家の女性が主役を務めた「エージェント・マロリー」ではそんな部分も気にならなかったので、やっぱり格闘を生業にしてた人とそうでない人のアクションでは、こういうところで差が出てくるんだろうなと思いました。
 モーターボールの乱闘シーンは、CGとの合成が絶妙に噛み合ってる感じがあって良かったです。

 

 ストーリーに関しては、まず一番に思ったのが「なんでモーターボールに拘るの?」でした。
これ、多分原作を覚えている人ほど、そう思ったんじゃないでしょうか。

 今回の場合、アリータ達の設定が結構変えられている上、イドの元妻や亡き娘も登場し、序盤でモーターボールの練習をするというオリジナル描写を入れられてるしで、細かい設定が詰め込まれ過ぎてギチギチ状態。

そこにモーターボール出場のエピソードも詰め込んだものだから、「設定や状況を説明してるだけの場面」がずーっと続くようになり、それで話の緩急や起伏も無くなって、アリータ達の感情の移り変わりが薄っぺらなものに。

話のテンポは良いものの、軽やかすぎてダイジェストを観ている気分になりました。

もうモーターボール要素は続編に回し、原作通りマカクとの戦闘をメインに持ってこれば、テンポも丁度良い按排になったのではと思います。

 

後は最初から最後まで、ずっとBGMが流れてたのが気になりました。
無音の場面があっても良かったと思うんだけど。
アリータの大きな目も、目の周りの皮膚と頬の皮膚が連動しておらず、アップにすると違和感を覚えることがありました。


 今回は色々言ってますが、同時にこの作品を作った制作陣が銃夢をリスペクトしてるのはよく伝わりました。
再現したいシーンやキャラが多かったからこそ、全部詰め込みたくてああなったんだろうと感じるほどに。
なので、もし続編があるとしたら、雰囲気はそのままで、今度は話を急ぎ過ぎずに丁寧に追って欲しいなと思います。


 以上、銃夢を中途半端に知っている者の感想でした。
銃夢を知り尽くしてる人、または全く知らない人がこの映画を観たら、また違った感想が生まれるのかもですね。

「灼熱の魂」の感想

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もっと複雑な印にした方が良かったのでは…。


 アカデミー賞の外国語部門にノミネートされた映画。
レバノン内戦を扱っていますが、テンポ良い構成で話を展開させているので、重い内容の割にはどよ~んとした気持ちにはならないのが良い感じでした。


 カナダで育った双子のジャンヌとシモンは、母ナワルの遺言で「ジャンヌは父を、シモンは兄を探し出し、私の書いた手紙を渡すように」と頼まれます。
そして、葬儀では祈りの言葉は必要ない、遺体を世の中に背を向けるようにうつ伏せにし棺桶に収め、約束が守られぬのなら墓石を置かず墓碑銘も刻むなという、奇妙な注文も付けられます。
子供達にとってナワルは昔から変わった(おかしな)母親であり、さらに遺言書で「子供時代のあなた達(双子)は私の喉元を突くナイフだった」という不穏な言葉を残されたものだから、弟のシモンは怒りMAXです。
 さっさと普通の葬儀をして肩の荷をおろそうと言うシモンを後目に、姉のジャンヌはモヤモヤした気持ちを清算する為、母の故郷であるレバノンへと旅立つのですが、父と兄の手がかりを探っていく内に、母の壮絶な過去が浮き彫りになっていく…というあらすじです。

 

 物語は現代と過去を行き来する構成になっているのですが、過去のパートは内戦ががっつり絡んでくるので、閉塞感を覚えるような描写が集中しています。

それを軽減する役割を担っているのが現代のパートで、こちらには姉弟が現在の父と兄の痕跡を辿るという謎解き要素を組み込んでいる為、重苦しい過去編を謎解きのヒントとして観ることを上手く促しています。

 そして父と兄の行方が分かった時、母の死の原因となった理由が分かるのですが、その事実はなかなか衝撃的なものなのです。

 

 なんですが、衝撃の事実の伏線のいくつかには少しぎこちなさを感じられた部分もあり、もうちょっと自然に描写されてたらなあ、とも思いました。

 例えば、作中に何度か出てくる「1+1=」という台詞。
ジャンヌが衝撃の事実に気付くシーンでシモンがそれを言い出したもんだから、「ここで言わせるのか…」とちょっと興ざめに似た気持ちになりました。
 この台詞って、他の人が言うのなら分かるんですが、当事者のシモンが言うと回りくどく聞こえるんです。
なんというか、脚本家の「名台詞を生み出したい」という意図をシモンが汲んで発言したような、そんな不自然さです。
まあ、それはシモンのキャラクターを壊す程のものではないので問題はないのですが、ちょっと気になったところでした。

 

 というように、強引さを感じるところもあるんですけど、それらに目を瞑るほどの価値はある映画だと思うのでオススメです。

レバノン内戦の概要を知ることもできますから。

個人的にも勉強になったので良かったです。

 


ここからはネタばれ感想。

 

 序盤の双子の態度を見るに、ナワルは双子に複雑な心情を持つが故に、彼らを素直に可愛がることができなかったのだと思われます。
時には憎い拷問人の面影をシモンに見て、感情を爆発させたことがあったのかも。
あの男の子供達というおぞましさもあって、どうすればよいのか分からないという心境で苦しみ続けてたのでしょう。
カナダで平和な日々を過ごしていても、彼女の魂は拷問人への怒りで燃え続けていたのだと思います。

 

 そんな彼女ですが、プールサイドで事実を知った後に、弁護士を通してニハドと双子に手紙を書きます。
彼女の死後に弁護士から双子へ手渡されるように手配したものの、まず姉弟がニハドへ2通の手紙を届けないと、彼らへの手紙の開封は許されないという、もって回ったような条件も付けました。

 

 メタ視点で考えれば、「真実を伝えるのにこんな回りくどいことをさせるなんてありえない。衝撃の事実の整合性の為に無理な理由付けをし過ぎ」となるのですが、あえて映画を好意的に考えてみると、ナワルは事実を知った後でも、ニハドと双子を赦すことができなかった為に、こんな方法をとったのではないかと思いました。

 

 彼女の遺言は、ニハドや双子に手紙が渡らなかった時の自身の処遇も書いていて、約束を守れない者に墓碑銘を刻む資格はないと記していました。
「約束」とはニハドを探し出すこと、何があっても愛すること。
「守れない者」はナワル自身のこと。

 

そして、ラストで渡された姉弟への手紙の内容は「あなた達のお蔭で約束は守られ、怒りの連鎖を断ち切ってくれた」という、完全に双子の行動頼りだった書き方です。
「怒りの連鎖」とは、ニハド⇄ナワルの怒りと、ナワル⇄双子の怒りのことだと思います。

 

 これらから察するに、ナワルにとっても姉弟が遺言通りに行動してくれるかどうかは大きな賭けだったのでしょう。
それでも、双子が自分(ナワル)への怒りやわだかまりを抑え、父と兄探しを行うことで約束を成就させたなら、自分と子供の間にある怒りの連鎖を断ち切ることになると考えたのではないかと。

 

 つまり、ニハドと双子に向けた愛の手紙は、ナワルが生前からそう思っていたのではなく、「遺言が果たされたら私はこの子達を心から愛せるはずだ」という、希望的観測だったんじゃないかと思いました。

ということで、双子のお蔭でナワルの遺言が果たされたことにより、死してなお灼熱だった彼女の魂はようやく鎮火。

なので、あの世にいるナワルは双子とニハドの誠意を見ることができて、3人の子供を心から愛することができるようになっただろうな、と考えています。

 

…我ながらちょっと微妙な解釈だけど、まあいいか。

 

少女漫画の色塗りって

 最近、少女漫画風を意識した絵を描いていて、それでやっと気付いたんだけど。

少女漫画の色塗りで影や陰が極力無くて全体的に淡い感じなのは、日本画をベースにしてるからなのかもなあ、と思った。

恐らく少女漫画の創世記で一線にいた人が日本画に影響を受けていて、その人に影響を受けた少女漫画家達が今のような形式を作ったのかな?

…なんて妄想をしてしまいました。

 

 逆に少年漫画は元々ディズニーやアメコミの影響が強そうだけど、少女漫画よりは色塗りの流行りの変化が激しいと思います。

 

 

「イグアナの娘」の感想

 最近、萩尾望都さんが文化功労者になられたと聞いて、数年前にTwitterイグアナの娘の感想を書くと呟いたことを思い出しまして。
なので、今回はちょっとだけ萩尾望都さんの「イグアナの娘」の感想を呟きたいと思います。

昔読んだっきりなので曖昧なところはあるんですが、それでも語らせていただきます。

 

 私の母が割と漫画好きだったこともあり、萩尾望都さんや山岸涼子さん等のコミックが家に置いてあって、幼少の頃から彼女らの漫画に親しんでいました。
その中でも私は山岸涼子さんが好きでして、特に彼女の描く短編は、心理描写が鋭くてごまかしも一切無く、描いてる本人すら心が傷ついたのでは?と思う程容赦の無いところがあり、読む度に衝撃を受けてました。

 

 一方で萩尾望都さんの作品も、ポーの一族やアロイス、半神やトーマの心臓等いくつか読んでいたのですが、感想としては「あまり深くない話を綺麗なタッチで深く見せるタイプの漫画家さん」という、大変失礼な印象を抱いていました(ごめんなさい)

 

 ですが、これらの後に発表された「イグアナの娘」を読んだ時、山岸涼子さんの漫画を読んだ時と同じ衝撃を受けたのです。
彼女にしては珍しくシリアスでも詩的でもない軽いタッチで描かれた漫画だったのですが、だからこそ心に沁みました。

 

 この漫画の主人公のリカは「自分の姿がイグアナに見える女の子」という奇抜な設定なのですが、その理由として妹のマミばかり可愛がり、リカには意地悪く接する母親のゆりこの存在があります。
長女のリカが(何故か)イグアナに見えるゆりこは、自分の子供だと認めたくないという気持ちが強く、一方で可愛らしい人の子である次女のマミは彼女にとって初めての子供という気持ちがあり。
結果、ゆりこはマミにはたくさんの愛情を注ぎ、リカには何かと厳しく辛くあたるという差別を生み出します。
そんな中で、母が自分をイグアナだと思っていることを知ったリカは、自身をイグアナとして認識するようになったんですね。

 その認識は大人になっても変わりませんでしたが、大学で知り合った牛に見える男性と結婚して母親と物理的に離れるようになってからは、この複雑な問題は一旦沈静化したように見えました。

 

 しかし、やがて旦那さんとの間に子供が生まれると、リカは自分の赤ちゃんが牛でもイグアナでもなく「人間」に見えることに混乱し、「異形」である子供に全く愛情を抱けない己に絶望して、嘆き悲しみます。

 

 そんな折、突然ゆりこの訃報が入り、内心それを悲しいと思えなくても義務感で里帰りをすることになりますが、お通夜にゆりこの顔にかけられた白い布をとってみると、リカは驚愕します。

 

何故なら、母の顔がイグアナに変わっていたからです。

 

取り乱した主人公が「私とそっくり!」と言うと、そばにいた親戚に「そうよ、昔からリカちゃんは母親似って言われてたんだから」と返され、その言葉に呆然とします。

 

 その夜、リカは人間の男に恋をしたイグアナの夢を見るのですが、そのイグアナが母のゆりこだと確信します。
恋心を募らせたイグアナは、魔法使いに頼んで人間にしてもらうことになるのですが、その時に「正体がイグアナだとバレたらフラれちゃうから気を付けて」と忠告されます。

 

それを見たリカは、今まで母が自分に対して冷たかったのは、イグアナの自分が生まれたことで、彼女の夫(リカの父親)に正体がバレるのが怖かったからなんだと合点がいき、子供の自分を愛せなくて母も苦しくて辛かったのだと、初めて母親を理解できた(ように思った)のです。
リカはその瞬間、「お母さん!」と叫んで目を覚まし、涙をぽろぽろと流します。

 

 そのシーンで、私も思わず涙が出てしまいました。
リカのその時の心情がとても理解できたように感じたからです。

 

 リカは今まで許せなかった母親を、夢を見ることで赦すことに成功したんだと思います。

 

心の中で、幼少の頃から受けてきた仕打ちへの怒りと諦めが大きく膨れ上がってしまい、母親を愛したい、愛されたいという気持ちは心の奥底でペシャンコになってしまって。

妹や旦那さんなど、協力してくれる人達の愛で埋め合わせができたように思えても。
自分が母親になって「人間」である我が子を愛せないことに気付いた時、リカは自分が母ゆりこと同じ道を辿りつつあることを感じ始めていたのかも。

 

 だからこそ、お通夜ではゆりこの顔が自分と同じイグアナに見えて。
きっと嫌悪し続けることに疲れていたリカは、亡くなったゆりこを見て初めて親近感を覚え、同時に母から愛情を貰うという僅かな希望が絶たれたのを実感し、自分で自分を癒して解放しようと、イグアナの夢を無意識に作り出したんだと解釈しました。

 

そうしてわだかまりの無くなったリカは、母ゆりこを反面教師として我が子と上手く接することができるようになったんだと思います。

 

 ちなみに、人種差別を扱った映画「アメリカンヒストリーX」のエンドロールで、「怒りは大きすぎて抱えきれるものじゃないから手放した方が良い」というようなフレーズが流れます。
まさにその通りだなと思うし、この「イグアナの娘」もそういう考えの元で作られたのかもしれないなと思いました。
勿論、実際は大きな怒りや憎しみを手放すのは非常に難しいことであるというのは分かってるんですけど…。

 

 この作品は実写ドラマ化されたので(私は観てないです)ドラマの方で知名度が高い可能性があるのですが、もし「ドラマ版しか観ていない」という人がいれば、原作の漫画も読んでみて欲しいなと思います。

 

 ということで、私はこの作品で萩尾望都さんのイメージが変わったのですが、でもやっぱりこの方の漫画は「イグアナの娘」のように今時の軽いタッチで描いた方が好みだな、と思います。
シリアスタッチな作品は私にはちょっと合わないかもしれない…。