こつぶがゴロゴロ。

主にネタばれ感想を呟いてます。

レギオン の感想。

 

 
  人に何度も裏切られてきた神は、ついに人類を滅ぼす決断を下した。
全ての天使がそれに従う中、ミカエルだけは命令に背いて天使の翼を切り落とし、人類の救世主となる赤子を守る為、行動を開始する。

 一方、アメリカのモハベ砂漠のダイナーでは、オーナーのボブとその息子ジープ、妊娠中のウェイトレス「チャーリー」がいつも通り働いていたが、奇妙な砂嵐、テレビや電話の不通など、おかしな現象が相次いでいた。
そこにふらりと現れた老婦人グラディス。
彼女はオーダーを取りに来たチャーリーに対し「お腹の子供は地獄に落ちる」とにこやかに言い放つ。
暴言に憤慨した客のハワードがグラディスに詰め寄ると、突如彼女は牙を剥いて彼の首を食い破り、店中をパニックに陥れた。

一変して非日常の場と化したダイナー。

だが、これは人類の存亡をかけた戦いの予兆でしかなかった。

 

 


 黙示録をモチーフにしたアクション・スリラー映画。
人類を滅ぼさんとする天使軍団と人間(と元天使ミカエル)の攻防がダイナーで繰り広げられるという、いかにもB級映画的なシチュエーションなのですが、演出に関してはヘタなA級映画よりも優れてると思います。


 まず、この映画は何気に場面転換の工夫がすごい。
「鬱々とした室内の閉塞感」と「荒野の景色が広がる室外の解放感」が効果的に映されていて、息苦しさや気だるさを感じさせることがありません。
作中、天使の襲撃に備えて登場人物9人が「狭く薄暗いダイナーで待機する組」と「屋上で広い荒野を見張る組」の2手に分かれるのですが、それによって物語が室内と外で切り替わるようになり、空間のメリハリをつけているのです。
ダイナーが市街地や森ではなく砂漠の道路沿いにある設定なのは、こういう効果も狙っていたのかもしれません。


 また、次の展開への「引き」も巧み。
その役割を担ってるのは主にミカエルなのですが、彼の意味深発言は次の場面を示唆し、物語の全体像を形作るものとなっている為、彼が話す度に期待が煽られるし肩透かしもありません。
同時に、ミカエルのミステリアスな存在感と頼もしさが強調され、元大天使という設定に説得力が加わるようにもなっているので、よく考えられてると思います。

 音に関しても、アイスクリーム屋のメロディやガブリエルの降臨を表すラッパの音など、象徴的な音色が絶妙のタイミングで入ってくるので、観ている私も気分が盛り上がりました。


 なので、これらの地味に素晴らしい演出のお陰もあり、グラディス登場から終盤までは本当にワクワクしながら観ることができたんです。

そう、終盤までは。
 

 というのも、この映画には「ターミネーター」を意識したような要素がよく出てきまして。
例えば、ミカエルがLAに降り立って砂漠へ向かうまでの一連だとか、チャーリーの職業がウェイトレスだとか。

 最初の頃はそういう所も「監督がターミネーター好きなんだろうな~」と微笑ましく見ることができていたのですが、終盤までいくとオマージュが笑えないレベルになってきて。
車を襲うガブリエルなんて最早 T-1000 にしか見えず、ラストではもう「これターミネーターじゃん」と呟いてしまうほどでした。

せめてラストだけは、この映画のオリジナリティを出して終わって欲しかった…。


 でも、やっぱり終盤までは目が離せないほど面白い映画なので、観て損はないのは確かです。
続編があれば観てみたいかも。

パッセンジャー

 ※過去にTwitterで呟いた感想に加筆したもの。

 


 地球から遠い別の星へ移住希望する乗客達を乗せて、広大な宇宙をひたすら進む大型宇宙船。
目的の星まで120年を要する為に乗客とクルー全員をコールドスリープさせていたが、あるアクシデントで1人の男性客が目覚めてしまった。
地球を飛び立ってからまだ30年しか経っていないことを知った彼は、残り90年間を宇宙船の中で独りだけで過ごすという絶望に耐え切れず、ある日、一目惚れした女性客のコールドスリープ装置を壊してしまう。
目覚めた彼女はその事実を知らないまま、身に降りかかった不幸を彼と慰め合い仲を深めていくが…。

 


 昔からよく語られる怖い話で、「目覚めると地中奥深く埋められた棺桶の中にいて、脱出もできずそのまま朽ち果てる」というシチュエーションがありますが、
この映画はそれを砂糖水で希釈して、恋愛とSFでドラマチックに仕立ててます。

広い宇宙船とはいえ、船内で孤独に一生を終える事実に直面した主人公「ジム」が、禁断の方法に手を出したくなる気持ちはよく理解できるし、ジムに強制的に目覚めさせられたヒロイン「オーロラ」がその事実を知り、可愛さ余って憎さ100倍で彼を殺しかけた気持ちもよく分かります。

分かり過ぎて、途中、観るのが辛くなってしまう程です。

地球へ引き返すことも、助けが来ることも叶わない宇宙でそんな事が起こるのは、
棺桶や狭い空間に閉じ込められて出られない恐怖と似ているのだと思われます。

 

だからこそ、しばらく後に船長が登場した時は「おおっ!」と体が前のめりになるし、ジムとオーロラが感じたであろう安堵を観る側も感じ取ることが出来て、
これから話が一気に動く予感にワクワクできるのです。
実際、話の盛り上がりは大きくなりますし、それまでの緩い倦怠感(退屈ともいう)は吹き飛び、ラストまで突っ走っていきます。

主人公達の心情の移り変わりも、話を効果的に展開させるのも上手い映画だと思います。

 

ただ、一方で設定に関して気になった点がいくつかありまして。

 

何故ジムとオーロラは船長が起きてるにも関わらず「彼の権限でクルーを全員起こして船やコールドスリープ装置の修理をしてもらう」という発想に至らなかったの?

船長すらそういう行動を取らなかったということは、宇宙船を修理できるエンジニアを乗せてなかったの?

そもそも普通は、宇宙船や乗客にアクシデントが起きた場合に対処できるよう、
数人は必ず起きていてシステムを見張っているもの(1~2年経ったら他のクルーを起こして交代)ではないの?

宇宙船のオート機能に任せっきりなんてあり得るの?


…という疑問が観ている間ずっとつきまとい、ラストを迎えても納得できる答えが見当たらなかった為に、私の最終的な評価はイマイチなものになってしまいました。

せめて、OPで「見張っていたクルーがアクシデントで死亡した」場面があれば、このモヤモヤも軽減できたと思うのだけど。

なのでこの映画は、「万が一の事も考えずに発進した宇宙船の悲劇」という前提で観た方がいいのかも。

 

でもラストは綺麗な締め方でした。

クリスマス・クロニクル2 の感想

 

 

 前作から2年後の続編。
すいません。正直に言わせてもらうと、今回はいまいちでした。

 

2年後に主人公のママが、新しい恋人と婚約寸前まで進んでるという設定は
まあ妥協できます。
主人公の初登場が、クリスマスとは無縁そうなリゾートビーチなのも
(個人的に微妙ですが)アリだとは思います。

 

問題は、前作の主人公テディが一線を退いて、ママの恋人の連れ子ジャックが
その位置に代わったこと。

 

前作と同様、テディとケイトがサンタクロースと再会して奮闘する話で良かったのに、何故テディをママやボブと同じ位置に降格させる必要が?
主人公格をケイト、テディ、ジャックの3人にするのは駄目だったのでしょうか?

 

 また、前作からの視聴者であれば、常識に染まった大人達とサンタがやり取りする様子を再度見たかった人が多いと思うのですが、そんな場面も後半になって
申し訳程度に出てくるだけ。


1と比べると全ての面でグレードが落ちていて、「ドラマシリーズにする予定だった企画を、無理やり映画にしたのでは?」と少し疑ってしまいます。

 

 何より前作と決定的に違ってたのは、今作は子供達とサンタクロースだけにフォーカスされていて、大人達が只の舞台装置と化しているということ。

1の話は大人のエキストラ達まで目が行き届いていて、「スレた大人達にもファンタジーを信じる子供時代があったんだ」と思わせるような、そんな情緒があったのに。

2は大人がただの飾りになっているし、視聴者に対しても「そろそろ現実を見つめて割り切った大人になろう」と暗に言っているようで、なんだかなあと思います。

 今回、19歳のテディがサンタと共に冒険しなかったのも、ケイトがママの再婚で亡きパパが忘れられるのではないかとモヤモヤしている設定も、そんなメッセージが込められてるように思えてならないのです。

 

 とはいえ、この映画は前作から「キッズファミリー映画」に分類されていたのも事実であり、今回の私の感想は「大きいお友達が年甲斐もなく駄々をこねてる」ことに近いのかもしれません。

本当のターゲット視聴者である子供達が、ケイトとジャックに感情移入して楽しめたのなら、この映画は大成功なわけですから。

 

 でもやっぱり、3が作られるなら再度1のコンセプトに戻してくれたらと思ってしまいます。

それに、 カート・ラッセルゴールディ・ホーンのサンタ夫婦は華がありキャラも立っているので、2で終わらせるのは勿体ないとも思うので。

 

…え、ベルスニッケルはって?
なかなか良いキャラだったと思います。

ユールキャットも可愛かった。

人に言えなかった、最近読んだ本

 

 

 私は初対面の人に趣味を聞かれると、いつも「読書or映画鑑賞です」と無難に答えています。
「最近読んだ本or映画でオススメはありますか?」と聞かれたら、素直にタイトルを教えて話を繋げていこうと必死です。
でも、先月に同じような質問をされた時、即座にあるタイトルが頭に浮かんだものの、それを口にすることができず。

う~んと唸るだけで終わってしまいました。
(今考えたら、適当に過去の既読本を言っとけば良かった…)

 

 何故タイトルを言えなかったのかって?
だってそれは、聞く人によって拒否反応が出そうなワードが入ってるから。
 
その本のタイトルは『科学者はなぜ神を信じるのか』。

初対面の人にこれを言うと、色んな意味で警戒されそうだったので、躊躇しちゃったんです。


 本を書いたのは、物理学者でありカトリックを信仰する三田一郎さん。
ある時に高校生に言われた
「先生は科学者なのに、科学の話で神を持ち出すのは卑怯では?」
という言葉に対し、回答代わりとして書かれたようです。

 私もオカルトや占いは好きですが、多くの学者さんがそういう類を科学や医学・心理学観点から否定しているのも知っています。
なので、「物理学者にまでなった人が宗教を信じる根拠って何だろう?」という謎に興味が湧き、この本を手にとったのです。

読んでみれば下手なオカルト否定派より冷静な視点で書かれていて、物理学者と宗教の感覚の違いを詳細に述べているという、浮ついたところが一切無い内容。

途中で「あれ?これ神様を信じてる人がその理由を書いてる本だよね?(汗)」と、こっちが心配する程です。

 

中身を簡単に説明すると、最初の章では宗教の歴史に触れていて。
その後はピタゴラスガリレオアインシュタインホーキング博士など、超高名な学者さんが宗教(主にキリスト教)とどう関わってきたのかなど、年代を追いながら最終章(恐らく2017年頃)まで語られていきます。

また、同時に彼らの考えた理論を初心者向けに噛み砕いて説明してくれる為、私のような文系は勿論、物理学に興味のある人でも十分楽しめる構成になってるように思います。
なるべく客観的に、科学者達に起こった当時の出来事、論争を書いているのも好印象でした。

 

ただ…、たま~に三田さんの見解が入るのですが、無神論者の人はそこで「ん?」となる可能性はあります。
例えば、ホーキング博士が神は存在しない旨を述べたことに対しての見解とか。
神が存在してたら良いなと思う私でも、「少しだけ希望的観測がありそうな…?」と感じた箇所があったので。

(物理学に詳しい人が読んだら、また違う印象になるのかもですが)

とはいうものの、最後の締めくくりの回答は、やっぱり物理学者らしいものだったので(動機の根っこはプラズマの大●教授と似ているのかも)、神を信じる人も信じない人も読んでみてほしいなと思う本です
 

ちなみに。

私がこの本で驚いたのは、1900年代でも神の存在を含めて理論を組み立てたり、それをする事に寛容な物理学者が割といたんだな、ということ。
あの有名なアインシュタインは、神が存在する(かもしれない)前提で理論を生み出していたらしく、その件について歴史的な高名の科学者達が、ホテルのロビーで軽く議論をしたそうなのですが。

その会話内容が、神や宗教など神秘的な要素を完全否定する科学者(名前忘れた)がいると思えば、
「神秘要素込みの理論であっても、正しい答えに辿りつけることは可能なのだから、
(自身が神を信じてるかは別としても)否定はしない」
という科学者(名前忘れた)もいたような感じで、神秘的なものに対する価値観は物理学者でも人それぞれだったのが窺えました。
その時の神秘容認派には、なんだか「過程より結果が全て」な印象も受けますが、新しい法則を見出す学者さんらしいな、とも思います。
※まあ、現在の科学者の考えはまた違うのかもしれませんが。


 …ということで、科学の歴史のお勉強にもなる本ではあるんですが、初対面の人に上記を説明しても益々引かれる気がするので、やっぱりタイトルを言わなくて正解だったかもしれないと思う、今日この頃です。

 

ミスティックアーク

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女主人公のデザインが好き。


 

 FF7やMOTHERと同じくらい好きなRPG

ファンタジーに疎い私でも、このゲームの7つの世界観にはドハマリしました。

デザインも音楽も何もかもがハイセンス。

特に音楽はスーファミRPGの中で一番だったと個人的に思うほどの凄さ。

このゲームでエニックスさんの印象が一気に変わったなあ。

もう一度記憶を消して遊びたいです。

 

続編のまぼろし劇場は…フランケンシュタインのような博士が出てくるステージで詰まってしまい、クリアできずに終わってしまいました。

 

 

 

隻狼プチ考察11:源の宮の人々が仏教を嫌ってそうな理由って

 

 

 霧の幻で、水生村の人々を惑わせていた霧ごもりの貴人。

彼の居座っていた廃寺の木には、僧侶と思わしき人が逆さ吊りにされており、寺内部でも仏像にお札が沢山貼られていて、まるで仏の加護が発動しないようにしてた様子でした。

また、水生村の神社の建物内でも仏像らしきものが破壊されてたりなど、どうも貴人…源の宮の人々は、仏教に憎しみを持っているフシが見受けられます。

 

しかし、源の宮の人々の恰好を見れば平安時代あたりで時が止まってるようで、屋敷には北斗七星の描かれた式盤が置かれていたのを見ると、彼らは陰陽道が基本のようです。
ということは、もともと神仏習合の精神は持ち合わせてた人達なわけで、本来なら仏教を目の敵にすることはないわけです。


では、彼らが仏教を忌む気持ちはどこから来ているのか?と考えると。

恐らく、源の宮の人々の目的と桜竜の目的が相反してることが関係してるんじゃないかと思うんですね。

先に結論を言っちゃうと、「彼らが仏教を忌むのは、葦名の仏教の象徴である仙峯寺の目的が『桜竜を帰郷させる為』であることを知ったから

ではないかと思われます。

 

要するに、「永旅経・竜の帰郷の章」が記された時から、源の宮の人々は仏教を忌むようになったのではないかと。
 

 神域で桜の跡?を祀っていたり、竜の舞面の説明で「竜に舞を捧げるため」と書いてあるように、源の宮の人々は桜竜を崇めているのが分かるのですが、有難がっている理由は桜竜の影響による永遠の若さへの執着だと思われるんですね。
(源の宮にいた姉妹や壺の貴人・春長の台詞を聞くとね)

彼らは桜竜がずっと仙境に居てほしいと思っており、桜竜が元の場所へ帰ることを望んでない可能性が高いのです。

 

しかし、仙峯寺の目指す「竜の帰郷」が行われれば、仙境から桜竜が居なくなる為、不死の恩恵が受けられなくなるかもしれません。

 だから、帰郷を望む蟲憑きの象徴である仙峯寺=仏教を忌むようになったのではと思います。

 

 また、破戒僧の説明で「源の宮の門を永く守らせるなら死なずが丁度いいだろう」という記述から察するに、恐らく力関係は「源の宮>蟲憑き」だと思われるのですが。

もし経典通りなら、桜竜にとって正しいのは蟲憑き(仏教)の方にあることになり、そうなると源の宮の立場が無いわけで。

飛鳥時代蘇我氏 vs 物部氏ではないですけど、今までの上下関係というか勢力図が変わりかねない危険がある、ということもあったのではと思います。

 源の宮の門番である八尾比丘尼が「破戒僧」と呼ばれるようになったのも、蟲憑きなら竜の帰郷を願わなければならないのに、帰郷を反対する側の源の宮に使役されていたから、という理由だったのかもしれません。

 

以上、今のところ考えられる理由でした。

 

…隻狼のアップデートまでに源一郎と一心のやつをUPできればと思ってたけど、このペースじゃ無理かも;。