こつぶがゴロゴロ。

主にネタばれ感想を呟いてます。

沈黙‐サイレンス‐のネタばれ感想

(以前Twitterで呟いたものをブログ用に書き直したもの)

 

遠藤周作さんの代表作のひとつとして知られる「沈黙」。

私はまだ読んだことがないし、キリスト教についての知識も無いため、今回の感想は知る人が読んだら的外れと感じるかもしれないのですが、それでも感じた・思ったことを書きたいと思います。

 

  切支丹の弾圧が盛んだった頃の日本。

布教活動をしていたフェレイラ神父がその地で棄教したとの噂が、ポルトガルのイエスズ会に届きました。

彼の弟子であった神父のロドリゴは、にわかには信じることができず、同僚のガルペと共に日本へ行き、真相を確かめることに。

道案内が必要だった彼らは、かつて切支丹弾圧により家族を殺されてやさぐれていたキチジローをマカオで雇い、長崎のトモギ村へと向かいます。

 隠れ切支丹である村人達に歓迎された二人は、早速布教活動を行い、そのうち別の村にも足を運ぶようになり、やがてフェレイラの消息も少しだけ掴むことができました。

ですが、ある日、とうとう奉行の井上様に二人の存在を知られてしまい、村人はロドリゴとガルペを隠す為、奉行からの責めを受けることになるのです。

ロドリゴは、村の人達の責苦を見続けることしかできず、そしてキチジローの裏切りにより己も拘束されていく中で、神に助けを求め続けました。

でも神は沈黙を守ったままで…。

 

 …と。

あらすじだけ書くと非常に重苦しい映画のよう。

いや、実際そうなんだけど、カット割とカメラワーク、そして耳心地の良い自然の音をBGMに流しているので、息を殺して観るような窮屈さも、気怠い空気感も感じさせず、更に日本映画にありがちな冗長的で退屈な「間」も無い為、割とサクサクっと話が進む感覚で観ることができます。

そして驚いたのは、異文化で育った異人種の監督が撮ったとはとても思えないほど、日本の「静」のイメージを自然に、的確に表していることです。

原作者も出演者達も殆ど日本人だし、原作に忠実に作った結果そうなったんだ、ということなのかもしれないけど、それでも西洋人の監督なのに日本人の感性をよく理解しているなと思いました。

 

 話は変わりますが、以前、明治時代の日本を舞台に描いた映画「ラスト・サムライ」がありました。

基本的に、時代考証や風俗に関しては日本人出演者達の意見を積極的に取り入れる姿勢だったらしいのですが、「忍者襲来はありえない」という意見に対してだけは、監督が絶対に譲らなかったそうです。

 

うろ覚えなのですが、その時の監督の言い分は「考証的に間違ってるのは私達(ハリウッド側)も十分理解している。でもアメリカ人は、昔の日本といえば忍者が出て派手なアクションをやることを期待するものだ。アメリカ人がこの映画にとっつき易くなるためにも、忍者は不可欠だ。」というようなことだったとか。

 

この数年後、トンデモ日本描写が話題になった『SAYURI』が作られましたが、この映画もラスト・サムライと同じように、制作側が日本描写の正確さよりアメリカ人との親和性を優先させた結果ああなったのだと思います。

 

「昔の日本」を正しく描こうとすると、華のない映画に仕上がっちゃうものなんでしょうね。

硫黄島からの手紙もそうだったし。

日本はアメリカ人にとって、質素で静かな文化のイメージが強いのかな。

ラスト・サムライとSAYURIの監督は、忠実な昔の日本の描写に拘りたくても、興行成績のことを考えると冒険できない、という考えがあったのかも。

 

今回の「沈黙」は、巨匠と呼ばれる程の地位にいるマーティン・スコセッシ監督だったからこそ、興行度外視で忠実な日本描写に拘って作ることができたのではと思いました。

 

 そして予想した通り、アメリカでは興行成績も振るわず、評判も退屈だとかイマイチとか言われたようです。

でも、この映画はとにかく監督の日本に対するリスペクトを凄く感じるし、日本人が観ても違和感を覚える箇所が無いという、珍しい作品です。

 

私は今までスコセッシ監督の映画を観たのは3本だけで、その時はあまり感銘を受けなかったんですけど、今回の「沈黙」で彼が巨匠と呼ばれる理由が分かった気がしました。

イーストウッド監督もそうですが、本当に優れた監督は登場人物の心情を的確に捉えることに長けてるんだろうなと思います。

そういう監督の作った映画は、どんなに地味で淡々としていても観る者を惹きつけることができるんだと。

そう思いました。

 

 ここからはネタばれ感想。

 

 主人公のロドリゴは、全編を通してイエス・キリストが言ったこと、行ったことに倣おうとします。

五島列島に辿り着いてからは、その傾向が一層強くなります。

奉行の手から逃れようとする時も、彼はかつてイエスが辿った苦難の道と自分を重ね合わせ、己を励ましました。

それは、キリスト教の知識が無い私から見ると、もはや倣うというよりキリストと一体化したがってるんじゃないかと思いました。

 

 例えば、奉行達に拷問をされることになるであろう村人が、「踏み絵を踏めと言われたらどうすればいいですか?」と聞くシーンがあるのですが、ロドリゴはすぐに「踏んでいい」と言い、それを聞いたガルペは血相を変えて「踏むな」と言います。

 

一見すると、ガルペよりロドリゴの方が優しさを発揮していて、柔軟な思考を持っているように見える場面です。

 

 ですが、私はこれを、彼が「自分はイエス・キリストを体現している」と思いつつあることを表した場面じゃないかと感じました。

純粋な優しさで「踏んでいい」と言ったのなら、彼自身も後にイノウエ様や通詞に言われる通り、すぐに形ばかりの棄教を口にすることを厭わなかっただろうと思うのです。

自分はそれを出来ないのに村人に対しては「踏んでいい」と言ったのは、ロドリゴの中に「私はキリストに近い存在だ」という気持ちがあったのではないかと思いました。

 そして、「自分は神父だ」という気持ちのままでいるのなら、ガルペのように「踏むな」と即答したんじゃないかと。

だって、そういう人ならきっと「主が仰って無いのに勝手に『踏んでいい』なんて言えるか!」と考えると思うから。

 

ロドリゴに対しイノウエ様が「善き神父のように振る舞うな!」と怒ったり、通詞が「傲慢な奴だ、他(今までのポルトガルの神父達)と変わらないな」と言ったのは、この辺りの矛盾が見えていたからなんだろうなと。

そしてガルペは、ロドリゴより神父らしい神父だったということを言いたいのではないかと思いました。

 

 そんなロドリゴに対し、イノウエ様は容赦ない攻撃を仕掛けてきます。

彼を拷問するのではく、彼を慕う切支丹の村人達を拷問して殺すという、良心を傷つけるやり方です。

イノウエ様は今までの経験から、神父の体を傷つけ殺そうとしても、その苦痛をキリストの受難と重ね合わせて陶酔し、ますます彼から棄教の意思を遠ざけることになるのを知っていたからです。

 

想定外の責めにロドリゴは動揺し嘆き悲しみますが、それでも「棄教」という選択肢は頑なに選びませんでした。

それを選べば「教えに背く」というより、「自身がキリストのようになれなくなる」と考えてたんじゃないかと思います。

 

 そんな彼に追い打ちをかけるように、今度はかつての師だったフェレイラが現れ、彼に棄教しろと諭します。

フェレイラ曰く、「日本は沼だからキリスト教が根付かず腐ってしまう」「彼らは自然の内でしか神を見いだせない、人間を超えるものがない」とのこと。

どこか刺のある言い方で、日本に対して割と攻撃的というか見下したような印象も感じられるのですが、映画を最後まで観ると、あの台詞は日本(またはイノウエ様)に心の底から屈したわけではないという彼の怒りとプライドを表してるんだろうなと思えました。

 

 私目線で見ると、日本人は「神や高位の存在と一体化する」という発想は畏れ多いと考えが根底にあるからじゃないかと思うんだけど…。

でも通詞の台詞を聞くと、もしかしたら「仏教の仏陀キリスト教のイエスは元は同じ人の子だ。仏教は仏陀のように仏になるため修行を促すが、キリスト教は信仰に変えて民衆を従える」という意味なのかな?とも考えてしまいます。

 

 フェレイラの変わりように怒り嘆いたロドリゴはここでも「棄教」を選ぶことはありませんでしたが、踏み絵を行うことになった夜、牢の中で大きないびきを耳にします。

それが自分を慕っていた村人達が拷問の際に出している苦悶の声だとフェレイラに教えられた時、彼は運命の選択を強いられることになります。

(ちなみにこの後のシーンで、踏み絵を前にしたロドリゴに「形だけ、ただの形式だから」と通詞が優しく言うところも、日本のことが分かってるなあと思いました)

 

最後の最後で棄教を決めたロドリゴ

その時、神はやっと沈黙を破り、語り掛けます。

「それでよい、私は全ての人達の痛みを分かつ為に十字架を背負ったのだから。」

 

棄教した彼をいまだにパードレ(神父様)と呼び、告解を求めるキチジローに複雑な思いを抱いた時、神はまた語り掛けます。

「沈黙ではない、私はお前と一緒に苦しんでいたのだ」

それに対し、「分かってます」と答えるロドリゴ

 

現実的に考えれば、ロドリゴの心が自己正当化の為に神の声を作り上げたのだという身も蓋もない結論になるのですが、多分そういう突き放した見方はこの映画はしてないと思うので、やっぱり本物の神がロドリゴに語り掛けたのだな、と思います。

恐らく、いつしかキリストと自分を同一視してた彼に対し、神は「本当にそう願うのなら、あらゆる人の苦悩…弱い者、裏切者、敗北者の心情も分かち合い、背負いなさい」という考えがあったのかな、と個人的には考えてます。

勿論、拷問され死んでいった村人達の苦しみも神は一緒に味わっていたということなんだろうなと。

 

そしてロドリゴは、かつて「弱く情けない者」として軽蔑していたキチジローから新しい信仰の在り方を学び、最期は本当の意味でキリストのようになれたのではないかと思います。 

 

以上、キリスト教を知らない者が観た感想でした。