こつぶがゴロゴロ。

映画とゲームと漫画の、主にネタばれ感想を呟いてます。

今時の日本の映画って

 今年のアカデミー賞は、韓国の「パラサイト」が作品賞、監督賞、脚本賞を獲るという、歴史的快挙を成し遂げたらしいですね。

私はこの映画を観てないので、どれだけ賞に相応しい作品なのかは分からないのですが、受賞の反応を見ると、この映画は賞を獲っても不思議じゃないほどのクオリティだったという感想と同時に、今の邦画…というかエンターテイメントに苦言を呈する意見もたくさんあって、未観賞の私にとってはそっちの方にうんうんと頷いてしまいました。

 私はもともと邦画を観るタイプではなく、ここ1,2年だと思い出す限りでは「超高速!参勤交代」と一昨日テレビで観た「翔んで埼玉」ぐらいなので、今から言うことは「浅い知識で語るな!」と怒られかねないものなのですが、とりあえず超ニワカなりの意見を即席で述べますね。乱文失礼します。

 

 韓国映画って、昔も「シュリ」オールド・ボーイ」「親切なクムジャさん」など、日本で割と話題になってましたよね。

私は韓国映画も邦画と同じくらい興味が無かったので(今でもそうです)、実際観たのは「シュリ」だけだったのですが、それでも当時は予想以上のクオリティの高さに「ちょっと、日本の映画はこれを観て危機感覚えないとやばいんじゃ…」と思いました。

 当時は北野武監督がカンヌやヴェネチアの常連となっていた頃だったし、「誰も知らない」だとか「たそがれ清兵衛」だとか、少し後に「おくりびと」が外国語アカデミー賞を獲ったりもして、日本映画も世界に認められていた時期でもあったのですが。

でもその時の邦画のイメージは「派手で軽過ぎる」か「地味で重過ぎる」の二極ぐらいしかなく、「丁度いい按排のバランスを保ったエンターテイメント映画」が無いように感じたんですね。テンポもいまいちでのっぺりした感じなのがスタンダードだったし。

その点、韓国映画「シュリ」は程々の重さを保ちながら流れるように展開していく娯楽作品となっていて、そういう部分が最近の日本の映画では見かけなくなったものなのではと思いました。

 

 今でも映画祭で賞を獲る邦画はあるのですが、それ以外に漫画の実写化やアニメ映画など、10代辺りに向けられた派手で軽めの作品が以前にも増して影響力を持っているように思います。

今はネットの影響もあってか、10~20代辺りにオタク文化が随分浸透してきていて、推しキャラやアイドル、俳優目当てで観る人も多い様子。

その人達向けに特化した映画も勿論あっていいとは思いますが(私も旬を過ぎたとはいえオタクですし)、でも最近は利益優先でそっち方面に偏り過ぎてるのではないか?と考えてしまいます。

まあ、本当はきっと真面目にクオリティの高い娯楽映画を作りたくてもできない、何らかの事情があるんでしょうけど…。

 

 ということで、今回のアカデミー賞を獲った「パラサイト」が、娯楽作品として仕上がってるのかは分からないのですが、日本の映画関係者はこのニュースで覚醒して奮起して欲しいなと思います。

だって、モノクロ時代に作られた黒澤監督の作品はちゃんと娯楽映画になってるし、今観ても素晴らしい演出なんだもの。

きっと今の映画関係者も本気を出せば作れるのではと思いました。

 

ちなみに、NETFLIXの「全裸監督」2話までは、日本ドラマとは一線を画してるレベルなのではと感じました。

日本版「コールドケース」もカメラワークがわりと洗練されてたような気がします。

 

「パラサイト」に関しては、DVDになってから観てみようかな。

「ジョーカー」の方はまだ観る気になれないけど…。

 

 

ライフ の感想

ネタばれ感想。

 

 火星探査機が採取した土をISSで調べたら、単細胞の生物を発見。
初の地球生命体を確認したことで、ISSのクルーも地球の皆さんも大喜び。
その記念として、生命体は「カルビン」と名付けられました。
カルビンはすくすくと育ち、ついには生物学者のヒューとコンタクトらしきことも行えるようになるし、そんな彼(?)の姿を見て、クルー達は感動もひとしおです。
 しかしある日、カルビンは自分を慈しんでいたヒューに対し、今までとは違う意思表示を行います。
実は、ヒュー達を親とも味方とも思っておらず、ただの捕食対象としか見ていなかった、ということを。

 

 

  真田広之さんの他、ジェイク・ギレンホールライアン・レイノルズなど、今をときめく俳優達が揃い踏みであるこの作品。

さぞかし画面がキラキラとした絵面になるのだろうとおもいきや。

そんな俳優陣のことを忘れる程の「地球外生命体にイライラする映画」でした。


ブロブ」や「遊星からの物体X」みたいに視覚的に凄いわけでもなくワクワクするような展開も無く、エンターテイメントとして見ると物足りない、そんな作品です。

 


 舞台が狭いISSの中ということもあってか、生命体との攻防も必然的にスケールの小さいものになっており、無重力状態でふわふわ浮きながら逃げたり抵抗したりするので、観ている方も苛々に近いもどかしさを感じるのと同時に、話の展開に締まりが無く間延びした印象を受けました。

 

 せめてISSの一部エリアにでも重力を発生させて(今の技術で可能なのか不明だけど)、その場所でクライマックスを迎えるようにしていればすっきりできたのかも。

 

 また、カルビンはタコをちょっとだけ大きくした程度の生物なのですが、その体長のせいか次々にクルーが襲われるシーンを見ては「なんでこんなチマチマした奴に人間達が翻弄されないといけないんだ」という気持ちになりました。

クルーを追い詰めるやり方も何となく意地の悪い人間を彷彿とさせるし、「こんな奴を人間の脅威と認めるのは癪だ」と思わせたんですよね。

人間側が友好的に接していたのに、カルビンはその好意を仇で返すような行動に出たように見えるところも、そう考えてしまった一因なのかもしれません。

 

人間達の脅威としては物足りない見た目だけど、しっかり人間を陥れて翻弄していくカルビン。

仮にSFパニック映画という認識無しで観ても、やっぱりイライラさせられることには変わりなかったんじゃ?とも思います。

 

 ただですね。
作中、ヒューが「カルビンに悪意はない、生存するために攻撃してるだけだ」と言ったり、また別の場面でミランダが「これは理性でも科学的でもない、あいつ(カルビン)が憎い」と言う場面があるのですが、これらの台詞から監督は、わざとカルビンに対してそんな気持ちを抱くよう、狙って作ったんじゃないかとも思います。

私たちの中にある無意識レベルの差別や一方的な好意の押し付け。
優位な立場にいる者なら誰でも抱きやすいそれらの感情を、あぶり出そうとしたんじゃないかと。

 観ていた私がカルビンを「恐ろしい地球外生命体」と認識する以前に「人の好意を無碍にした奴」だと思ってしまうのも、彼の最初の姿がいかにも「人間が庇護しないと生きていけない存在」に見えたからだろうし。
そういう意味で、考えさせられる映画でもありました。

 

 でも…。
監督が生物に対する人間側の驕りだとかを風刺する意図があるのなら、ミランダを宇宙に彷徨わせるラストはやめて欲しかった。
デビッドが地球の海に漂着するのはいいとして、ミランダは爆発か何かで死んでしまう展開で良かったのに、と思います。
だってあれじゃあ、ただ観客の心をかき乱したかっただけの、悪趣味なものにしか見えなかったんだもの。

創竜伝がまだ続いてたなんて

 昨日の桜竜の考察をUPした時にふと創竜伝を思いだし、ちょっと検索してみたら去年新刊が出ていたことにびっくり。

てっきり未完のままフェードアウトするのかと思ってました。

私が最後に読んだのは12~13巻(確か崑崙から日本へ帰ったところだったような)だったけど、もはや竜堂兄弟が日本から脱出した理由もおぼろげになってしまった…出すのがあと10年早ければなあ。

英伝薬師寺涼子も今は手元にないし。

 

隻狼プチ考察8:桜竜の目的について

 

 

 12月に隻狼が大きな賞を貰ったと聞いて嬉しくなったので、また考察もどきをひとつ。

 

 隻狼に出てくる経典では、竜の故郷は西にあると記されています。
「西」が日本の西にある中国なのか、それとも西遊記よろしくインドなのか、はたまた西方浄土のことであるかは分からないのですが(私は今のところ西方浄土だと思ってます)、そこに竜が帰ることによって死なずの人達は報われる、というような内容。

 

 また、変若の御子の台詞で「竜胤は故郷より放たれ日本に辿り着いた」というものがありますが、「放たれた」が「放逐された」という意味なのだとすれば、かつて桜竜は何かと戦って傷つき敗れ、西の故郷を追い出されたのではないかと推測できます。

 

 その後は自力で日本に辿り着いたのか、それとも常桜の種子に姿を変えて風に流されるうち、葦名の古い土地に降り立ち木の根を張ったのかは分かりませんが、ボロボロの竜は仙郷に住み着いて、養生しながら傷を癒そうとしたのではないかと思われます。

 
 じゃあ傷を癒すってどんな風に?と言われれば、葦名の古い土地で美味しい水を飲みながらゆっくり休む、ということになるんでしょうけど、竜の舞い面の説明を読む限りだと、竜を敬う心や信仰心でも生命力を得ていたのではないかと考えられます。

というのも、一心にお酒を飲ませた時に「蹂躙された長い間、源の水を祀ることも許されなかった」という台詞が聞けるからです。

 

「源の水」という言葉からして、水は桜竜が住み着いた後に祀られるようになったのだろうと思われるのですが、葦名の民が水を祀ることを禁止されたせいで、桜竜へ注がれる信仰心が途絶えてしまい、桜竜の傷を癒すことも力を蓄えることもできなくなったのではないでしょうか。

 

 そこで困り果てた竜は、丈に対し「ワシの片腕(分身?)を下界に植樹して祀るようにしてくれない?」と常桜を渡し、巴には「下界に降りて田村勢と戦ってる一心の助太刀をしてやって」と頼んだんじゃないかな?と妄想。

 

そして葦名衆が勝って源の水を祀ることが再開され、葦名城にも常桜を植樹してもらい、やっと桜竜も養生できると思った矢先。
梟が常桜の花を盗んで木を枯らしたことにより、桜竜は片腕までも無くしてしまった、という流れだったのかもしれません。

 

 では、もし順調に癒されて活力ある元の姿に戻った場合、桜竜は何をしたかったのか?と考えると、やっぱり「西へ帰りたい」が目的だと思います。
ただ、竜の帰郷EDの方法だと竜胤が帰郷することになり、肝心の桜竜は置いてけぼりになることもあって、あの時点では桜竜にとって時期尚早というか、望んでいなかったのではないかと考えています。

 

 もう一つの根拠を言うなれば、仙郷で顕現した桜竜は相変わらず手負いの状態だし、竜の涙を取りにきた狼を寄せ付けないように攻撃を繰り出したからです。
また、それぞれの手記でも桜竜の涙が必要だと記されているのは「竜胤断ち」のみで、「人返り」も「竜の帰郷」も桜竜の涙を必要だとは書いていません(メタ視点の常桜の花にはありましたが)

なのに、「人返り」と「竜の帰郷」EDを目指した時でも狼が桜竜の涙を九郎に飲ませたということは、彼には九郎を生かしつつも竜胤を根絶するという目的があったのではないかと思われるのです。

 

桜竜にとっては体が癒えてない上、自身を繁栄させる目的で作ったのであろう竜胤までいなくなれば、源の仙郷からますます離れられなくなってしまいます。
だから「竜の帰郷」EDは、狼、九郎、変若の御子、死なずの人々にとっては希望を持って終わるのだけど、桜竜にとっては「ちょっと待ってえええ!」な気分なのかも。

 

まあ、すべては丈が竜胤断ちの書を書かなければ、桜竜にとって竜の帰郷EDも有意義なものになっていた可能性もあるけど。
でも丈はきっと、下界に降りて竜咳が蔓延し多くの人々が苦しみ死ぬ様を目にしたからこそ、竜胤断ちを決心したんだろうとも思います。

 

 余談ですが、神域にいる古墳時代辺りの格好をした巫女についても。
髪と肌が真っ白なところからして、彼女は竜胤の御子とはまた違った存在なのかなと思います。
九郎や変若の御子の白い髪はメッシュ程度のものですが、神域の巫女は完全な白髪(銀髪?)ですからね。
肌の色も青白いし(死んでるからだと言われればそれまでですが)
源の水を飲んだ人々や動物達(猿や蛇)も真っ白になっているところからして、水を飲み続けるとああなるのかも。

 

 というわけで、私の考える桜竜の解釈は、今のところはこんな感じです。
物語中での判断材料が少ない為、どうしても「これだ!」と確信をもって書くことはできないのですが。
たくさんある解釈の内のひとつだと思っていただければ幸いです。

※追記。

この考察は、常桜のテキストと巴の手記の件を無視して考えたものでもあります。

なので、白木の翁達に関する考えが整ったら改めて考察しなおす予定。

ヒックとドラゴン  聖地への冒険 の感想

 ※初っ端から2と3のネタばれ全開です。前半は批判です。

 


 今月、ヒックとドラゴン3が公開されたと聞いて、私は下記の文章を書きました。

 

 私は、ヒックとドラゴンが大好きです。
1は勿論、テレビシリーズのDVDだって全部揃えたし、ネットフリックスに入ったのも、元々は「新たな世界へ」のため。
だから、完結編となる3も都合がつけば近いうちに映画館で観たいと思ってます。
 
ただ、そんな私でも2は未だにDVDを購入してません。
何故かといえば「つまらなかった」から。
単純な理由です。

 1の倒すべき敵は凶悪で強大なドラゴンでした。
2の場合、1よりスケールのでかいドラゴンは出てくるのですが、真の敵はそのドラゴンを操る人間です。
その悪役の人物が、操るドラゴンに見合う程の魅力的なキャラクターだとは、私にはどうしても見えなかったのです。
その為、強大なドラゴンと戦うシーンにもワクワクできませんでした。

また、ヒックの母親とドラゴンを捕獲する新キャラ(最後にストイックのドラゴンを譲り受ける男性)も魅力の薄さを感じてしまい、「ただストイックを殺すために生み出されたようなキャラ」という印象がぬぐえませんでした。
これならストイックを殺すにしろ、2人を出さない方が物語が引き締まったのでは?と思います。

 その他にも、ヒックとアスティの1からの急激なイメチェン(外見も内面も)等、ちょいちょい戸惑うところがあった為、私の中で「2は無かったことにしてもいいかな」という判断になったのです。
 
 でも、去年頃に海外版のヒックとドラゴン3の予告を観て、敵が再び人間であることを知りました。
そして母親とあの男性が出てくることも。
また2のような感じになるのかな?と考えると、映画館に足を運んでまで観に行くのを躊躇しちゃう私です。

 ということで、せっかくの完結編なのだし、観たことを後悔しない為にも3の新たな敵は2より魅力ある悪役であって欲しいです。
そしてトゥースとヒックとその仲間達の能天気(これ大事)なやり取りを、なるべくたくさん見られますように。

 


 しかし、これをUPした翌日にすぐ削除してしまいました。
2で感じた不満は、3で解消されるかもしれないと考えたからです。
予告編を見る限りだと2と大して変わらない印象でしたが、それでも自分の思い違いであることを祈りつつ、希望を持っていました。


 そういう経緯を経て、今回ようやく3を観ることができたのですが。
結論から言うと、2よりは若干良よくなったけど1には遠く及ばない、でした。
映像は確実に1より豪華なんだけど、心に刺さるものが無かったのです。


 話としては、2から1年後の設定。
ヒックと仲間達が、ドラゴンをハンターから救出し続けた結果、バーク島はドラゴンでぎゅうぎゅう詰めに。
そんな時、ヒックは幼い頃に亡き父ストイックから聞いたドラゴンの聖地の伝説を思い出し、バーク島の人々とドラゴン達でその場所へ引っ越そうと思いつきます。
早速行動を開始するヒック達ですが、その裏で高名なドラゴンハンターであるグリメルが、捕えていたライトフューリーを囮にしてトゥースを殺そうと画策。
トゥースとライトフューリーは出会ってから急速に仲を深めていくのですが、ライトフューリーの方は人間に囚われていたせいもあってか、決してヒック達に近づこうとはしません。
今までトゥースとずっと一緒であることを疑わなかったヒックは、トゥース無しでやっていけるのかという懸念と別れの予感に不安になるのですが…。

というあらすじです。


 でも…う~ん。
何で今回もラストはドラゴンを挟んだ人間同士の戦いになっちゃうんだろう。
せっかくの完結編なんだから、1のように「驚異的なドラゴン対ヒック&トゥースと仲間達」という構図に戻せば良かったのに…。
原作が元々そういう話だったということなら、まあ仕方ないとは思うんだけど。
私的には、今回もラスボスが脅威的なドラゴンではないところに肩透かしを食らいました。
話としてはまあまあなのだけど、スケール的にはテレビシリーズをちょっと豪華にしたようなもので、映画レベルではないと感じました。

 

 一応、トゥースが恋をして自立を望んだ時、ヒックがトゥース無しで一人前になれるのか?というのは、ヒックの成長物語として避けて通れない要素なのは理解できます。
もしもメスのナイトフューリーが他のドラゴンのように身近にたくさんいたり、あるいはライトフューリーがヒック達との共生を良しとしたのなら、トゥースもヒックと一緒のまま居られたと思うのですが、そのどちらでもなければヒックがトゥースに独り身を強いるという歪な形になっちゃいますしね。
(この辺、日本のペット事情…室内飼いにも通じるところがあるなと思います。)

 

 でも、その結論が何故「『全ての』ドラゴンと人間はまだ共存できる段階ではない」に導かれたのかの理由付けが弱かったと思います。
ヒックはともかく、アスティを始めとするバイキング達もラストでその考えに倣ったのが唐突に感じて。
作中に彼らとペアを組んでいるドラゴンとの間に疑問や葛藤する描写を入れていれば、あのラストもすんなり納得できたと思うんですけどね。

 

 今回はグリメルという新たな敵も登場するのですが、彼は子供の頃、寝ていたナイトフューリーを殺したことからヒーローと呼ばれ、名のあるドラゴンハンターになったという、ヒックとは逆の選択肢を辿った人物です。
ナイトフューリーをこの世から一匹残さず消すことを信条としており、トゥースを執拗に狙う悪役ですが、前作のドラゴよりはマシだと思えたものの、やっぱりインパクトがイマイチで。
テレビシリーズの悪役だったアルビンやダガー、フライヤーの方がよっぽど存在感のある魅力的な悪役だったように思います。

 

 更に、2で登場したヒックの母ヴァルカと元ドラゴンハンターのエレットが引き続き登場しますが、相変わらず何の為に出てきたのか、存在意義の薄いキャラクターでした。
一応、「別世界でドラゴンと人間が邪魔されずに暮らせるか?」の問題にはヴァルカが、グリメルの説明はエレットが担当という感じで割り振られていましたが、申し訳程度に触れるだけ。
今回はスノットを無理やり絡めてこの2人のキャラクターを味付けしようと試みたフシも見受けられるのですが、中途半端に感じました。

 

 それと、ストイックが人間とドラゴンが争わなくなるために「ドラゴンの聖地」を探していた、という設定。
1のストイックを考えると「えっ?」となります。
だってあの時の彼は村に襲来するドラゴン達を根絶やしにする為、ドラゴンの巣を探そうと船出をしていた筈でしょ?
あのストイックがそんな平和的な解決策を望んでいたのか?と思うわけです。
せめて「ドラゴンを聖地に封じ込める為」に探してた、という理由付けか、あるいは後にドラゴンをぶっ潰す思考に変わっていった理由を描いていたのなら個人的に納得できました。

 

 私的に1の話でカタルシスを感じられたところって、トゥース含めたドラゴンとヒックの相互理解の過程と、ストイックを始めとするバイキングとドラゴンとの和解だったんですよね。
その話にあの音楽がカチっとはまり、相乗効果を生んで奇跡的な感動を生み出してたわけで。

2と3は「どうしても解り合えない人間との潰し合い」という構図なので、そういうところがなんだかなあと思います。

 

 重ねて言いますが、2や3で描かれた、「ヒックの成長物語」と「人とドラゴンの在り方を描く」というテーマ自体は否定しません。
ただ、「ドラゴンを守る人間VSドラゴンの害になる人間」という構造だとしても、ラスボスは強大なドラゴンにすることはできたんじゃないかと思っちゃって。
まあ、これはもう個人的な嗜好になるのかもしれませんね。

 

 …などと、初っ端から批判だらけになりましたが。
勿論良いところだって沢山あります。
トゥースは相変わらず可愛いし、トゥースとライトフューリーが嵐の中を飛ぶシーンも割と迫力があって綺麗だったし。
ヒックやアスティ以外にも、スノットやタフラフが目立っていたのも好印象でした(その反面、フィッシュの影が薄かったような…)
特にタフが呼ばれてない結婚式に2回参加したという台詞とか、ラフのズケズケとしたお喋りでグリメルがうんざりするところなど、「新たな世界へ」のエピソードと繋がってるのを示唆してるようで、クスっとできたり。
あと、アスティが「あなたのおかげで私は変われた」という台詞には、「そっかー、2からマスカラとアイシャドーをつけなくなったのはヒックの影響だったのか」と思えたり(違)

 

 また、私のように1のカタルシスを求めているのではなく、純粋にヒックの成長物語や人間とドラゴンの正しい関係性の行方を追っていた人にとっては、それなりに納得できる結論に導かれた物語だったのではないかとも思います。
グリメルを倒した後に1の音楽が流れた時は、流石に気分が高揚しました。
あの曲は本当に良過ぎる。

 

今回の「聖地への冒険」は、「人間はまだドラゴンと対等に共生できるほど熟した存在ではない」という結論を出したものの、「熟すればいつかまたドラゴン達と共生できる」という希望も残して終わりました。
早い段階で…ヒックが生きている内に、そのような時代が来るといいですね。
それを願いながら、私もテレビシリーズやNetflixのシリーズを観なおして、人間とドラゴンがイチャイチャしてた頃の時代を懐かしみたいと思います。
勿論、3の後日談(クリスマスのやつ)も含めてね。
あれ観ると3の後は、ヒックだけでなくバーク島の人達も、たま~にドラゴンと交流してるのかも?という解釈もできて幸せになれるのでオススメ。

FF7のクラウドについてのキャラ語り

 

 昔からドラクエとFF、どっち派?と聞かれると、いつも困ってました。
何故なら、私は根っからのMOTHERシリーズ派で、ドラクエにもFFにも思い入れが皆無だったからです。
(それでも、ドラクエは2と5、FFは4~9とタクティスを遊んだことがあります)

ただ、そんな私でもFF7だけは例外で、MOTHERに匹敵するだけの思い入れがあるのです。(コンピレーションは除外)

 

FF7を好きな理由は沢山あります。
音楽のスケールが世界観と話にマッチしていたり、戦闘シーンのテンポが初の3Dにしては恐ろしく良かったり、ストーリーの視点が人間ではなくもっと高次の…星の目線で設定されている所など。
他にも良いところは色々あるんですが、その中でも私ががっつりハマった理由は、やっぱり主人公のクラウドが魅力的過ぎたからです。
今はRPGに一切触れてないので最近の主人公の傾向が分からないのですが、少なくともFF7が発売された当時は、クラウドのような主人公は見たことがありませんでした。
それだけ目新しくインパクトの強いキャラクターだったのです。

では、従来のRPG主人公とクラウドの何が違うのか?ということになるんですが。
簡単に言うと、クラウドが経験した挫折は物語的に決してカッコイイものではない、ということです。


 彼は幼い頃、ニブル山でティファを助けられなかったことが原因で、しばらく自暴自棄になります。
これがまず最初の挫折。
そんな荒れた生活を送っていたある日、ふとしたことで英雄セフィロスの存在を知り、ソルジャーになることで挫折から這い上がろうとしました。

この時点までは、他のRPGにもありそうな設定です。

でもクラウドって、その後に努力してもソルジャーになれなかったという2度目の挫折と、ニブルヘイム事件で大事なものを守れなかったという3度目の挫折を経験しているところが凄くリアルだなと思い、彼に感情移入したんです。
 
まず、普通のRPGなら、挫折といってもほぼ無条件に世間の同情を買いそうな類のものだと思うんですね。
例えば国を守りきれなかったとか、特殊な出生のせいで差別を受けたとか。
挫折と言っても、決して恥ずかしいとか、情けないとかいう類のものではない。むしろ物語的としては、アクセサリーになりうるものです。
(勿論、実際にそんな目にあった方にはアクセサリーなんて失礼なことは言いませんよ。あくまでゲームシナリオについての話です)

でもクラウドの場合は、そういうものに比べれば本当に庶民レベルの、恥ずかしくて隠しておきたいと思う類の挫折です。
そういうところが従来の主人公とは違う部分だな、と思うのです。

 それに、普通の人の人生なんてよっぽど恵まれていない限りは、大きなこと些細なことあわせて挫折を繰り返していくでしょ?
誰だって世間に出て上のランクを目指せば目指すほど、挫折する確率はそれだけ高くなるわけで。

クラウドはそんな平凡で夢見る人達の挫折やコンプレックスを、リアルに表現したキャラだと思うんです。


そんな彼のいいところはですね。
何度挫折しても、それでも歩き続ける根性だと思います。

幼少時代はティファを助けられなくて、少年時代はソルジャーになれなかった上に故郷と大事な人達を奪われて。
そして貴重な青春時代に監禁されて廃人にされ、その場所から脱出できたと思うと親友(CCの動画を見るとそう見えなかったけど)が殺されて。
ゲーム開始後も、自分の隠しておきたかっただろう願望やトラウマを、ジェノバ細胞のせいで他人にまで曝け出す羽目になって。
それ以外でも彼の身に次々と理不尽な出来事が降りかかり。
仲間達の助けがあったとはいえ、それでも彼はよく前を歩き続けることができたなと思うんです。

弱音を吐いたり躊躇したりしてても、結局は前に進むことを選択するクラウドがカッコよく思えます。
ほんと彼ぐらいですよ、プレイヤーに対して心の恥部を「どうだー!」とばかりに堂々とありのまま晒す主人公なんて。


更に2.5枚目なのもポイントが高い。
初心者の館の説明は勿論、蜜蜂の館に入る気満々だったり、ギャルの背中にオイルを嬉しそうに塗ってあげたりとか、彼の台詞回しや行動にはユーモアがありますし。

多面性が奇跡的なバランスで表現されたキャラクターだと思います。


 ところで、彼についてよく言われるのが、「前半のクラウドは本当のクラウドか?」ってことですね。
今はコンピレーションも出てるので、それと併せて解釈するのが主流なのかもしれませんが、あえて私は原作のみで解釈したいと思います。

前半のクラウドの性格は、5年前の彼そのまんまだと思います。
仕草と経験はザックスを真似ているようですが(コピーしたというより、回想でザックスが兵士に教えていたソルジャーの仕草を実践してたのだと思われます)、5年前の母との会話を見てみると、前半のクラウドと変わらない口調だったので、性格に関してはザックスやセフィロスの影響はないと思われます。

前半の彼は、ただ「ソルジャーになった自分」をロールプレイング、又はシミュレートしているだけなのでしょう。

 後半になるとクラウドは自分を取り戻しますが、そのときの性格はどちらかというと気の優しそうな感じが出ていて、前半とは少し雰囲気が違っています。

 それは、彼が前半よりも成長したからなんだと思います。
弱かった故に幼い頃から固く心身を強張らせていたけれど、強くなった今ではそんな必要はなくなった。
きっと今まで強く力んでいた反動で、弛緩しちゃったんでしょう。

 だからED後は、徐々に前半のクラウドの性格にまた近づいていくんじゃないでしょうか。
勿論、ACやKHみたいなクラウドではなく、本編の前半クラウドに大人の余裕を持たせたような、穏やかな雰囲気を付加した感じになるのではと。

 

 でもさらに謎なのは、クラウドの頭の中に話しかける声の正体や人形モードだった時の人格はなんなのか、でしょうか。
声に関しては多分、過去のことを知っている割にはクラウドをそそのかすような口ぶりからして、断片化した過去のクラウドの意識とジェノバ細胞の意思が融合したもの、もしくは彼自身の記憶をコピーしたジェノバ細胞だと思います。

古代種の神殿などに出てくるちびクラウドは、間違いなく彼の大本の意識だと思うのですが、人形の人格は、エアリスを殺されたり人形だと言われて動揺している心の隙を突いた、ジェノバ細胞の「他人の記憶に合わせて変化する」能力…いや、というより「他人の言動に合わせて」と言った方が正しいのかも知れません、それが新しい人格を作ったのだろうな、と。
 これについては、いずれ気が向いたら語りたいと思います。


※ちなみに、この文章は大昔にサイトで書いたキャラ語りを加筆修正したものです。
本当は新しくクラウドを語り直そうと思ってたんですが、昔の方が熱のあるキャラ語りが出来ていたので、もうこれでいいやと思って。