こつぶがゴロゴロ。

映画とゲームと漫画の、主にネタばれ感想を呟いてます。

FF7リメイクが発売されてから1年…

発売されてから1年以上経つのに、いまだに2週目が始められてない…。

FF7好きの私からしたら信じられないことだ…と思ったけど、よく考えたらアドベントチルドレンも3回ぐらいしか見てないし、コンピレーションの流れを汲んでるリメイクなんだから、こうなるのは当然だろうなと思い直した。

 

 ところでリメイクは、クラウドを馬鹿にしたような描写がやたらあるけど、原作と違ってシャレになってない。

リメイク版のクラウドは序盤から露骨に「偽ソルジャー」だと匂わされ、性格も子供っぽく軟化させてるから、「エリートの振りしたお子様主人公が意地の悪い大人達にイジられる図」になってしまってて、見ていて気持ちいいものではなかった。

 

 対して原作版の前半クラウドは、元エリートのクールな大人キャラとしてプレイヤーに認識されていたからこそ、蜜蜂の館の関係者や蜜蜂嬢、コスタデルソルのギャル達にボロクソに貶されても笑えたわけで。

後半で自分を取り戻してからはイジり的なものは一切出てこなかったし、その辺のバランスが上手く考えられてたと思う(もしかしたら偶然の産物かもしれないけど)

 

そういうバランスの有り無しが、原作とリメイクの違いなんだろうなとしみじみ思った、今日この頃。

ティファの過去小説も今さら読んだけど、近々簡単な感想を書いてみようかな。

火の鳥 鳳凰編 について ~茜丸の輪廻転生と2週目~

 

 

 YOUTUBEのオススメで中田敦彦さんの「火の鳥 鳳凰編」の紹介動画が出てきたので見たんだけど、独り芝居が面白くてついつい見入ってしまった。
私も小学生の頃、家にあった火の鳥の未来編を読んで衝撃を受けたクチなので、ちょっとだけ親近感が芽生えました(笑)

 

 ところで、鳳凰編の感想について昔からよく言われているのが茜丸の輪廻転生。
始めの頃は仏師として純粋な心を持っていた茜丸が、地位と名誉を得てから段々変わっていき、あげく権力を借りて我王の腕を斬り落とすことまでやってしまいます。
そんな彼も最期は火事で焼死するのですが、そのときに火の鳥の放った言葉が残酷だと評判です。

茜丸が死ぬ間際に「まだまだやり残したこともある、また仏師に生まれ変わりたい」と切望するのに対し、火の鳥は「今後、お前が人に生まれ変わることは永久にありません」と宣告するからです。


私の場合、鳳凰編に関してはアニメ版から入ったんですけど、初めて例の場面を目にしたときはご多分に漏れず茜丸が気の毒に思えて。

代償にしても大き過ぎるのではないかと気が滅入ったのを覚えてます。


しかし、その後に原作の漫画を読むと「茜丸って実はそこまで悲惨なキャラではないのでは?」と思うようになったんですね。

 

 原作では茜丸正倉院鳳凰の図の前で夢を見る場面があるのですが、夢の中の彼は鳳凰を見るため遣唐使船に乗っており、船が嵐に巻き込まれた際に海に落ちて命を落としてしまいます。
気が付くと微生物に生まれ変わっていて、このときはまだ茜丸の記憶が残っているのですが、亀に転生する頃には人だったことも思い出せず、亀としての生を素直に受け入れました。
 次に小鳥に生まれ変わると母鳥に連れられて火の鳥に挨拶しに行くのですが、デジャヴを感じた小鳥が「ぼく、おばさん(火の鳥)のこと見たことあるよ。ずっと昔、おばさんを見たくてたまらなかったんだ」と言います。
火の鳥は「それは貴方が人だった頃の記憶よ」と答えるのですが、母鳥は「この子があんな恐ろしい動物(人間)の生まれ変わりだなんて!」とショックを受けるんです。


そこで夢から覚めた茜丸は、前世に火の鳥を見たことを思い出して完璧な鳳凰像を彫る流れになります。

 

私はそのシーンを読んだ時、「これは罪を犯した者の末路の描かれ方ではない」と思いました。
この漫画では人間の転生が至上だとは定義付けられておらず、価値観は動物ごとに異なると言ってるのだと感じたのです。

 

 また、死ぬ間際の茜丸に対し火の鳥は「もう人に生まれ変わるチャンスはありません、運命は最初から決められているからです」と言います。
この台詞で火の鳥茜丸を断罪したわけではなく、地球の輪廻が上手く回るよう誘導する役割を忠実にこなしてるだけなのだと理解できたように思いました。


 ここまで考えると「じゃあ夢で遣唐使船に乗っていた茜丸は何なの?」という疑問に行き着くのですが。
それは、未来編を読めばすぐに合点がいくようになってます。

 

 未来編の粗筋をざっくり言うと「間違った道を歩んだ人類が滅び地球の万物創成をやり直す」なのですが、滅亡前の人類史を1週目とし、創成後の人類史を2週目とすると、遣唐使船の茜丸は人類史1週目の記憶だったのではないかと思われます。

 

 つまり鳳凰編は人類史2週目の話であり、その時の火の鳥には我王を真の仏師にする目的があった為、 茜丸鳳凰像を彫らせて鬼瓦対決が発生するよう仕向けたのではないでしょうか。
そして人類史2週目で火の鳥が目的を達成した後、茜丸の「人」として成すべき課題は終わったのだと考えられます。

茜丸の輪廻は罪によって人に転生できなくなったのではなく、人に転生することがイレギュラーだったのではないかと。

 

 というわけで私のトラウマは漫画版によって解消されたのですが、これが自分自身の輪廻だったらと考えると…。

やっぱり茜丸同様に割り切れないし、恐ろしいと考えちゃいます。

 

 ちなみに、我王はずっと人に転生し続ける輪廻のようです。
ですが、醜い大きな鼻を持ち続けて志半ばで死ぬという、満たされない人生を永遠に繰り返すのだと火の鳥から宣告されます。
その理由は、人類史1週目で起きたと思われる「宇宙編」が発端となっているようです。
…この件の考察についてはまた別の機会に書こうかな。

隻狼プチ考察メモ 菩薩谷の猿って

4月から色々あって中々更新できず…。

繋ぎとしてSEKIRO の短いプチ考察のメモ。

 

菩薩谷にいる猿達って、元々は葦名衆や内府軍の赤備えだったんじゃないかな。

茶色い猿が葦名衆で、二刀流の白猿が内府軍の赤備え。

内府軍襲来の時に白蛇神社に行くと、白猿と茶色の猿が戦ってますし。

 

恐らく変若水を飲んだから猿になったのではないかと思うのだけど。

なぜ葦名衆が茶色猿で内府軍が白猿なのかは、まだ頭の中でもやもや中。

隠し森の寺へ行く途中で猿がいたことからして、変若水が仏教を暗示してるのは分かるんだけど。

 

隻狼の考察すっかり忘れてた

 

一心と弦一郎の考察するって言ったのにずっと放置してたことを思い出した。

 

一心が亡くなったのは、狼が仙郷で桜竜を雷でコテンパンにした挙句、拝涙したからではないかと思うのだけど。

あの桜竜が一心の化身なのか、それとも桜竜と魂が繋がってたのか、私の中でまだ考えがまとまらない。

一心の病気も、桜竜や常桜の影響かなと思うんだけど…。

 

隻狼のアップデート以来、再戦ばっかりやってるんだけど(死闘踏破は達成できた)、ストーリーを見る為にもう一回最初から遊んでみようかな。

FF7で約束の給水塔

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原作のクラウドとティファのポリゴンが本当に可愛かった。


今月にはいって何もアップできてないので、せめて2年前の絵を。

この夜は彼らの親にとっても一大事件だったろうな、と。

もちろん原作版のイメージです。

 

 

 

ロッキー1の再観賞で新たに気付いたこと その2(エイドリアンについて)

 


 今日は、前回の感想で書き忘れた部分をちょろっと書きなぐり。
追記しようかと思ったけど、新記事として書きます。

 

 今回の観賞で、実は他にも気付いたことがあります。

それは、エイドリアンの極度な引っ込み思案の理由がちゃんと描かれていたこと。

今さら気付いたの?と言われそうですが、私にとっては目から鱗でした。
 

 作中、ポーリーが荒れ狂う場面がありますが、その時エイドリアンに対して
「今まで(エイドリアンの)面倒をみてやったのにこの恩知らず!もっと俺に尽くせよ」と言います。(うろ覚え)

その台詞に激怒したエイドリアンは
「恩知らず?今まで兄さんの食事や洗濯をしてあげてたのに何の恩があるというの?兄さんが私をみじめにしたのよ!私は負け犬じゃない!」と言い返します。

 
このやり取りを見てハッとさせられたんです。
エイドリアンが内気だったのは、長年に渡ってポーリーに見下され、束縛され続けたせいだったんだと。

昔から「お前は不器量で駄目な妹だ」とポーリーに言われ続けていたから、彼女は自信喪失して独立心を挫かれ、身動きが取れなくなっていたんだな、と。

だからエイドリアンは、兄との共依存関係から抜け出す為に家を出て、ロッキーと同棲を始めたんですね。

それを踏まえて考えると、エイドリアンにとってのロッキーは、言葉の呪縛で雁字搦めにされて動けなかった自分を救い出してくれた、まさに白馬の王子様な男性だったんだろうと思います。

ポーリーとエイドリアンも、これがキッカケで兄妹としてあるべき関係に構築しなおすことができたんでしょうね。

 ヘタな少女漫画より恋愛としがらみをしっかり描いてるのが凄いです。

シルベスター・スタローンって、本当に人の心の機敏を描くのが上手いですね。

脚本家としても優れてる人なんだなと思った、再観賞の感想でした。

時を置いて再観賞したら、また新たな発見がありそう。映画って奥が深い。

 

 

ロッキー1 の再観賞で新たに思ったこと その1

 

 最近、ロッキー1 を再観賞して今更ながら気付いたことが。

ロッキーって、下品な事を決して口にしないキャラクターだったんですね。

ポーリーやガッツォの部下はその類の台詞を発するんだけど、ロッキーはそれに一切乗らないようにしてたのが印象的でした。 

彼の身なりを注視すると、シャツやタンクトップには穴が開いてるし、言葉遣いもスマートではないんですが、女性に対する態度は無骨ながらも紳士そのもの。

男同士の会話ですらロッキーは一定の品格を保って接しているから、観ていて安心感がありました。


そこで思ったのは、ロッキーをはじめ、昔の映画って品があったなあ、ということ。
チンピラだろうがスラム街の住人だろうが、下品と思うことが無かったような。

最近の映画だと、普通の主人公ですら下ネタやNGワードを連発するのが当たり前になっていて、登場人物もロッキーやランボーのように共感できるような弱さではなく、モラル的に許されない部分を肯定的に描こうとするのが多くなった気がするし…。

時代の流行りなんだろうか。

 

今後はロッキーのように、本当の意味で品の良い映画が再び増えてほしいなあと思いました。 

※ちなみに、死霊館シリーズ等はロッキーに近いものを感じます。

みんな性善説で動いてる感じ。