こつぶがゴロゴロ。

主にネタばれ感想を呟いてます。

ラ・ラ・ランドのネタバレ感想

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即席の絵をぺたり。



 

  主人公のミアは、バイトをしながら女優になる夢を追うも、オーディションで落とされる日々を送る女性。そしてセブは、自分の店をかまえて大好きなジャズを弾き客と盛り上がりたいという夢を持つ男性。

その二人が高速道路ですれ違い、そして再会すると恋に落ちました。

 同棲まで進んだ二人は自分の夢を語り合い、ミアはセブの励ましで小さな劇場を借りて独り芝居をやることを計画し、セブはミアのアドバイスで自分の夢の為に稼ごうと、今時の音楽バンドに参加することになります。

そして、セブは世間的には大成功をおさめるアーティストの一人となりました。 一方で、一人芝居の為に着々と計画を進めていたミアですが、ある日セブのバンドのライブを観て違和感を覚えます。

これは彼の望んでいた「成功」ではないと。

更に数日後、セブはミアに「一人芝居の計画を中止して自分のバンドのツアーに同行して欲しい」という含みを持ったお願いをするのですが…。

 

 

 …というあらすじ。

 正直に言うと、初印象の時点で個人的に「う~ん…」という感じでした。

ポスターを見てもあらすじを聞いても、あまりピンとこなかったというか。

どうも自分には合わない映画なんじゃないかと、観る前から感じてたんですね。

 でも、ラ・ラ・ランドはなんといってもアカデミー賞をたくさん獲った映画。

その中でも作品賞と脚本賞をノミネートされたということだったので、一応期待をしながら鑑賞しました。

 

 結果、やっぱり私には合わなかった…作品賞と脚本賞に何故ノミネートされたのか分からない程に。

 

 夢と恋愛を焦点にしたミュージカル映画なのですが、とても偉そうな感想を言うと、主人公のミアと相手役のセブのキャラクターにさほど魅力を感じなかった上に、二人の歌とダンスにどうも華が無いような気がして。

ストーリーにも感銘を受けることがありませんでした。

子供の頃に授業で観た、ウエストサイド物語やサウンドオブミュージックの方が、よっぽどダンスと歌に迫力があった気がします(勿論、思い出補正が働いている可能性も大きいですけど)。

 

 ただ、この二人以外の演出…例えば、パーティシーンの音楽に合わせてプールに飛び込んだりシャンパンを注いだりする辺りの映像は素晴らしかったです。

小道具もさることながら、エキストラさん達がとてもスタイリッシュに、印象的に撮られていたと思います。

 

 

ここからはネタバレ感想。

 

 最後に女優として大成功したミアは、別の男性と結婚し子供も出来て幸せな家庭を築きますが、セブは最初に描いていたささやかな夢を叶えるものの、独身のままで(おそらく恋人も作ってない)ミアの提案した屋号を使って店を開いています。

その対比がなんだかな~と思いました。

 

恐らく、「あのまま二人が一緒にいれば、どちらかの為に相手の夢を妥協させることになってしまうから別れて正解なのだ」ということなのだと思うのですが、だからって何故セブを家庭を持たない独身のままに、しかもミアに未練があるような設定にしたんだろうと、ちょっとモヤモヤしました。

個人的に、セブにも奥さんや子供がいるか、せめて屋号が「チキン・スティック」とか別の名前だったらスッキリできたんだけどなあ。

 屋号を彼女提案の名前にするなんて、結局妥協になるんじゃない?って気がするし。

まさか序盤の「別れた女を付け回す男みたい」が伏線になってるわけでもないだろうし…。

 

 なので監督は、この映画がずっと印象に残るように、観客の心に爪を立て傷つけたかったんじゃないかなと思うことで納得しました。

 

 とまあ、個人的にはあまり共感することの無い映画だったのですが(あるとすれば妥協の末の成功で元の夢を見失ったところぐらい)、某声優さんも、かつて「売れた途端に同棲中の恋人を捨てた」と週刊誌か何かに書かれてたらしいという話を聞いたことがあるので、芸能関係だと「あるある」な話なのかもしれないです。

だからこそ、アカデミー賞の審査員や俳優に支持され、作品賞と脚本賞に選ばれた、候補に挙がったのかな?と思います。

 

  でも、あの二人の夢はどうしても相容れない、というほどのものじゃなかったと思うんだけどなあ。

この映画的に、その時に来たチャンスは絶対に逃してはいけない、という教訓が込められてるのかな?

 

 

隻狼プチ考察5:「竜胤の雫」

竜胤の雫は稀に御子から零れ落ちるそうだけど、あれは涙なのかな?

生の力を奪われた者に生命力を返す効能を持ってることから、不死の契約をした者が死ぬ度に奪った生気は竜胤の御子の体に集まってくるのかも。

その力が溢れてしまい涙として体から排出されるのが竜胤の雫なのかな?と思いました。

もしかすると回生の力は元々竜胤の御子(もしくは桜龍?)の体を強化させる為のシステムだったのかもしれない。多分。

死霊館とインシディアスシリーズって

 お互いの設定や演出がリンクしてるところが面白いね。

エンフィールド事件だと、ベッドで寝てたと思ったら階下に移動するシーンが、インシディアス序章だと上階に移動してたり。酸素マスク付けた幽霊が出てくるのも共通してるし。

そして、どっちも前日譚と後日談の後付改変が上手くて、前作の良さを殺すことを決してしないのが凄いと思う。

ファンが変えて欲しくないところ、触っても問題無いところを的確に押さえてるというか。

きっと、制作側も配慮を心掛けてるんだろうな。

FF7のコンピレーションもこのくらいのレベルだったら、今度のリメイクも心配なかったんだけどなあ。

沈黙‐サイレンス‐のネタばれ感想

(以前Twitterで呟いたものをブログ用に書き直したもの)

 

遠藤周作さんの代表作のひとつとして知られる「沈黙」。

私はまだ読んだことがないし、キリスト教についての知識も無いため、今回の感想は知る人が読んだら的外れと感じるかもしれないのですが、それでも感じた・思ったことを書きたいと思います。

 

  切支丹の弾圧が盛んだった頃の日本。

布教活動をしていたフェレイラ神父がその地で棄教したとの噂が、ポルトガルのイエスズ会に届きました。

彼の弟子であった神父のロドリゴは、にわかには信じることができず、同僚のガルペと共に日本へ行き、真相を確かめることに。

道案内が必要だった彼らは、かつて切支丹弾圧により家族を殺されてやさぐれていたキチジローをマカオで雇い、長崎のトモギ村へと向かいます。

 隠れ切支丹である村人達に歓迎された二人は、早速布教活動を行い、そのうち別の村にも足を運ぶようになり、やがてフェレイラの消息も少しだけ掴むことができました。

ですが、ある日、とうとう奉行の井上様に二人の存在を知られてしまい、村人はロドリゴとガルペを隠す為、奉行からの責めを受けることになるのです。

ロドリゴは、村の人達の責苦を見続けることしかできず、そしてキチジローの裏切りにより己も拘束されていく中で、神に助けを求め続けました。

でも神は沈黙を守ったままで…。

 

 …と。

あらすじだけ書くと非常に重苦しい映画のよう。

いや、実際そうなんだけど、カット割とカメラワーク、そして耳心地の良い自然の音をBGMに流しているので、息を殺して観るような窮屈さも、気怠い空気感も感じさせず、更に日本映画にありがちな冗長的で退屈な「間」も無い為、割とサクサクっと話が進む感覚で観ることができます。

そして驚いたのは、異文化で育った異人種の監督が撮ったとはとても思えないほど、日本の「静」のイメージを自然に、的確に表していることです。

原作者も出演者達も殆ど日本人だし、原作に忠実に作った結果そうなったんだ、ということなのかもしれないけど、それでも西洋人の監督なのに日本人の感性をよく理解しているなと思いました。

 

 話は変わりますが、以前、明治時代の日本を舞台に描いた映画「ラスト・サムライ」がありました。

基本的に、時代考証や風俗に関しては日本人出演者達の意見を積極的に取り入れる姿勢だったらしいのですが、「忍者襲来はありえない」という意見に対してだけは、監督が絶対に譲らなかったそうです。

 

うろ覚えなのですが、その時の監督の言い分は「考証的に間違ってるのは私達(ハリウッド側)も十分理解している。でもアメリカ人は、昔の日本といえば忍者が出て派手なアクションをやることを期待するものだ。アメリカ人がこの映画にとっつき易くなるためにも、忍者は不可欠だ。」というようなことだったとか。

 

この数年後、トンデモ日本描写が話題になった『SAYURI』が作られましたが、この映画もラスト・サムライと同じように、制作側が日本描写の正確さよりアメリカ人との親和性を優先させた結果ああなったのだと思います。

 

「昔の日本」を正しく描こうとすると、華のない映画に仕上がっちゃうものなんでしょうね。

硫黄島からの手紙もそうだったし。

日本はアメリカ人にとって、質素で静かな文化のイメージが強いのかな。

ラスト・サムライとSAYURIの監督は、忠実な昔の日本の描写に拘りたくても、興行成績のことを考えると冒険できない、という考えがあったのかも。

 

今回の「沈黙」は、巨匠と呼ばれる程の地位にいるマーティン・スコセッシ監督だったからこそ、興行度外視で忠実な日本描写に拘って作ることができたのではと思いました。

 

 そして予想した通り、アメリカでは興行成績も振るわず、評判も退屈だとかイマイチとか言われたようです。

でも、この映画はとにかく監督の日本に対するリスペクトを凄く感じるし、日本人が観ても違和感を覚える箇所が無いという、珍しい作品です。

 

私は今までスコセッシ監督の映画を観たのは3本だけで、その時はあまり感銘を受けなかったんですけど、今回の「沈黙」で彼が巨匠と呼ばれる理由が分かった気がしました。

イーストウッド監督もそうですが、本当に優れた監督は登場人物の心情を的確に捉えることに長けてるんだろうなと思います。

そういう監督の作った映画は、どんなに地味で淡々としていても観る者を惹きつけることができるんだと。

そう思いました。

 

 ここからはネタばれ感想。

 

 主人公のロドリゴは、全編を通してイエス・キリストが言ったこと、行ったことに倣おうとします。

五島列島に辿り着いてからは、その傾向が一層強くなります。

奉行の手から逃れようとする時も、彼はかつてイエスが辿った苦難の道と自分を重ね合わせ、己を励ましました。

それは、キリスト教の知識が無い私から見ると、もはや倣うというよりキリストと一体化したがってるんじゃないかと思いました。

 

 例えば、奉行達に拷問をされることになるであろう村人が、「踏み絵を踏めと言われたらどうすればいいですか?」と聞くシーンがあるのですが、ロドリゴはすぐに「踏んでいい」と言い、それを聞いたガルペは血相を変えて「踏むな」と言います。

 

一見すると、ガルペよりロドリゴの方が優しさを発揮していて、柔軟な思考を持っているように見える場面です。

 

 ですが、私はこれを、彼が「自分はイエス・キリストを体現している」と思いつつあることを表した場面じゃないかと感じました。

純粋な優しさで「踏んでいい」と言ったのなら、彼自身も後にイノウエ様や通詞に言われる通り、すぐに形ばかりの棄教を口にすることを厭わなかっただろうと思うのです。

自分はそれを出来ないのに村人に対しては「踏んでいい」と言ったのは、ロドリゴの中に「私はキリストに近い存在だ」という気持ちがあったのではないかと思いました。

 そして、「自分は神父だ」という気持ちのままでいるのなら、ガルペのように「踏むな」と即答したんじゃないかと。

だって、そういう人ならきっと「主が仰って無いのに勝手に『踏んでいい』なんて言えるか!」と考えると思うから。

 

ロドリゴに対しイノウエ様が「善き神父のように振る舞うな!」と怒ったり、通詞が「傲慢な奴だ、他(今までのポルトガルの神父達)と変わらないな」と言ったのは、この辺りの矛盾が見えていたからなんだろうなと。

そしてガルペは、ロドリゴより神父らしい神父だったということを言いたいのではないかと思いました。

 

 そんなロドリゴに対し、イノウエ様は容赦ない攻撃を仕掛けてきます。

彼を拷問するのではく、彼を慕う切支丹の村人達を拷問して殺すという、良心を傷つけるやり方です。

イノウエ様は今までの経験から、神父の体を傷つけ殺そうとしても、その苦痛をキリストの受難と重ね合わせて陶酔し、ますます彼から棄教の意思を遠ざけることになるのを知っていたからです。

 

想定外の責めにロドリゴは動揺し嘆き悲しみますが、それでも「棄教」という選択肢は頑なに選びませんでした。

それを選べば「教えに背く」というより、「自身がキリストのようになれなくなる」と考えてたんじゃないかと思います。

 

 そんな彼に追い打ちをかけるように、今度はかつての師だったフェレイラが現れ、彼に棄教しろと諭します。

フェレイラ曰く、「日本は沼だからキリスト教が根付かず腐ってしまう」「彼らは自然の内でしか神を見いだせない、人間を超えるものがない」とのこと。

どこか刺のある言い方で、日本に対して割と攻撃的というか見下したような印象も感じられるのですが、映画を最後まで観ると、あの台詞は日本(またはイノウエ様)に心の底から屈したわけではないという彼の怒りとプライドを表してるんだろうなと思えました。

 

 私目線で見ると、日本人は「神や高位の存在と一体化する」という発想は畏れ多いと考えが根底にあるからじゃないかと思うんだけど…。

でも通詞の台詞を聞くと、もしかしたら「仏教の仏陀キリスト教のイエスは元は同じ人の子だ。仏教は仏陀のように仏になるため修行を促すが、キリスト教は信仰に変えて民衆を従える」という意味なのかな?とも考えてしまいます。

 

 フェレイラの変わりように怒り嘆いたロドリゴはここでも「棄教」を選ぶことはありませんでしたが、踏み絵を行うことになった夜、牢の中で大きないびきを耳にします。

それが自分を慕っていた村人達が拷問の際に出している苦悶の声だとフェレイラに教えられた時、彼は運命の選択を強いられることになります。

(ちなみにこの後のシーンで、踏み絵を前にしたロドリゴに「形だけ、ただの形式だから」と通詞が優しく言うところも、日本のことが分かってるなあと思いました)

 

最後の最後で棄教を決めたロドリゴ

その時、神はやっと沈黙を破り、語り掛けます。

「それでよい、私は全ての人達の痛みを分かつ為に十字架を背負ったのだから。」

 

棄教した彼をいまだにパードレ(神父様)と呼び、告解を求めるキチジローに複雑な思いを抱いた時、神はまた語り掛けます。

「沈黙ではない、私はお前と一緒に苦しんでいたのだ」

それに対し、「分かってます」と答えるロドリゴ

 

現実的に考えれば、ロドリゴの心が自己正当化の為に神の声を作り上げたのだという身も蓋もない結論になるのですが、多分そういう突き放した見方はこの映画はしてないと思うので、やっぱり本物の神がロドリゴに語り掛けたのだな、と思います。

恐らく、いつしかキリストと自分を同一視してた彼に対し、神は「本当にそう願うのなら、あらゆる人の苦悩…弱い者、裏切者、敗北者の心情も分かち合い、背負いなさい」という考えがあったのかな、と個人的には考えてます。

勿論、拷問され死んでいった村人達の苦しみも神は一緒に味わっていたということなんだろうなと。

 

そしてロドリゴは、かつて「弱く情けない者」として軽蔑していたキチジローから新しい信仰の在り方を学び、最期は本当の意味でキリストのようになれたのではないかと思います。 

 

以上、キリスト教を知らない者が観た感想でした。

ジェーン・ドゥの解剖

(以前Twitterで呟いたものに追加・修正したもの)

 スプラッターやゴアを連想させるタイトルですが、中身はしっかりオカルト映画でした。

一家皆殺し事件が起きた家を、警察による検分が行われている中、地下に埋められかけていた一糸纏わぬ美女の死体が発見されます。

とりあえずジェーン・ドゥ(業界用語で、身元不明の女性の遺体をそう呼ぶらしい)と名付けられた彼女は、検視官親子の死体安置所へと運ばれ、死因を調査されることになりました。

たった二人と一匹の猫だけの建物で行われる検死解剖は、親子にとっては日常茶飯事であり、特に息子のオースティンは、今回もチャチャっと終わらせてガールフレンドとレイトショーを観てイチャイチャする…

筈でした。

メスを入れてジェーン・ドゥの体の裏表を確認する内、彼女にまつわる恐ろしい事実があきらかとなるのですが、親子がその意味に戦慄した時にはすでに遅し。

彼らは不可解な現象に完全に囚われてしまうのです。

 この映画は扱ってる題材が題材の為、とにかく検死解剖の演出が凝ってて視覚的に生々しいというかグロいシーンが結構出てくるのですが、主人公親子がひとつひとつ検分していく毎に死体の謎が解き明かされていくので、最初はそのシーンに「うげげ」と思っていても、段々次の謎が知りたくなり、どんどん話に引き込まれていきます。

また、この映画にはレビ記20章27節、セイラム裁判、ヘブライ書4章といった聖書絡みのワードが出てくるのですが、その辺の知識があまり無い人(私もです)でもちゃんと話についていけるし、楽しめるようにできています。

やっぱり良い映画は何も考えずとも話が頭の中にスルッと入ってくるもんだなと思いました。

 ただ、猫だけはあんな目に遭わせて欲しくなかった…動物が不幸になるのを見たくない私は悲しくて涙が出てしまった。ホラー映画だってのに。

まあ、それ以外はテンポよく話が進んでいくし、刺激的なタイトルから予想されるようなスプラッターでもなく、オカルトで攻める正統ホラー映画なので、そういうのが好きな人にはオススメです。

ジェーン・ドゥ役の女優さんが、自分の体の上をメスが撫でていくのは怖かった、とういうことを言ったらしいけど、そりゃ怖いよなあ。

 ここからねたばれ感想。

外傷は無いのに、骨が折られてたり内臓が傷つけられた痕のあるジェーン・ドゥですが、元々彼女の体は表面も損壊の激しい状態だったんじゃないかと思います。

それを癒す為、被害者達に己の体に与えられた傷や苦痛を転移させて傷を修復していき、OPの一家の死でやっと体の表面が元の状態に戻ったのではないかと。

それでもまだ修復出来なかった肺と骨については、トミーの犠牲で回復することができたんじゃないかな。

ラストのヘブライ書4章の辺りから察するに、最終的に動けるようになり復活する目的がありそう。

「もう二度としない、約束する」と言った警察官の男性は、ジェーン・ドゥの正体も親子が死んだ理由も把握している可能性が高いですね。恐らく、検死解剖によって彼女に苦痛を与えてしまったことに対し「もう二度としない」と言ってるんだろうな。

でも次に運ばれるところは医学大学のようだし、また同じようなことになりそうなんだけど…。

じゃあ彼の正体は?というと、やっぱりセイラム魔女裁判で告発された誰かの関係者なのではないかと思うのですが。

非常に乏しい私の知識ではこれ以上の考察は難しいです…。

もしかしたらこの映画のコメンタリーなんかでその辺りの回答があるのかもしれないですね。

全裸監督(2話までの感想)

 実在するAV監督の半生を面白おかしく描いたドラマ。

評判は聞いていたけど、内容が内容だった為に観ることを躊躇ってましたが、Netflixのトップページにでかでかと宣伝されたのを機に、思い切って観ることにしました。

 

 舞台は昭和55年の北海道。

主人公の村西は、当時、成績最低でクビ寸前の英語教材セールスマンでした。

嫁さんと子供2人と母親を養う為に必死な彼は、成績トップの先輩に教えを請うことになります。

そこで伝授されたのは、女に例えたセールストークのコツ。

早速実践した村西は、とんとん拍子に成績を上げ、会社からも一目置かれる存在になりました。

が、ある日のこと、公私ともに大きな悲劇が。

打ちのめされて不幸のどん底にいた彼は、ふとしたことで盗聴テープを売っているトシと出会い、それが切欠でアダルト業界の道へと進んでいきます。

村西はセールストークと斬新なアイデアでアダルト業界でも快進撃となりますが、警察や別勢力とも対立することとなり…。

 

 そんな昭和のアングラな世界と主人公達が、生生しく描かれているこの作品。

完全再現された昭和の雰囲気とギラギラした色の演出を交えながら、軽快なテンポで話が進んで行きます。

なので、面白いかどうかと問われれば「評判通り面白い!」と即答できるんですが、やっぱり暗い部分に焦点を当てた物語なので、観てスッキリするという感覚は私には味わえませんでした。

 

 ただ、今回ちょっとびっくりしたのは、ストーリーと演出の出来が少し日本離れしてるように感じたこと。

昭和っぽい重々しい雰囲気ではあるんですが、従来の日本ドラマの構成とは何かが違ってて、とても洗練されている。

カメラも結構動いてるし、海外ドラマと同じような演出でした。

 

そしてもうひとつ驚いたのは、主人公を演じる山田孝之さんの演技が凄く上手かったということ。

私は10年以上日本のドラマは観てないので、「勇者ヨシヒコでドラクエ5の主人公の恰好をしたらしい俳優さん」程度の印象だったのですが、今回彼の演技を目の当たりにして、今の若手?俳優にもこんな上手い人がいるんだと驚きました。

サラリーマン時代なんて決して派手な役どころでは無いのに、一番演技力の高さを感じたし。

これを観て、「勇者ヨシヒコもいつか観てみようかな?」という気持ちにさせられました。

 

とまあ、偉そうに俳優評までしてしまいましたが、このドラマは俳優さん達も演出も昭和の大きなパワーを表現しきってますので、昭和生まれも平成生まれも大正生まれも満遍なく楽しめるだろうなと思います。

 

 でも、私にはアングラ耐性があまりないので、個人的に続きを観るのは躊躇しちゃいます。

まあ話は気にはなるので、また観ることができたら感想を書きたいです。

 

※追記。よーく考えたら4,5年前に「猫侍」観てた。

隻狼プチ考察4:陣左衛門の父親が

 「霧深い隠れ里だが忌まわしい村」と言ったということは、陣左衛門が生まれる前後の頃も森は霧に覆われていたんだろうか。

そうなると、水生村は村人がおかしくなってから20年以上は経っている可能性が。

森にいた僧侶の「儂も随分年老いてしまったが…」という台詞からして、霧ごもりの貴人が廃寺に居座ってた期間は長そうだし。

その目的が村人に京の水を飲ませて源の宮へ連れていくことだとすれば、岩戸の前にいた破戒僧もその計画が邪魔されないように見張っていたということなのかな?

 

 ちなみに、廃寺の吊るされた人を筒で覗いたら、どうも僧侶っぽい感じ。

源の宮の貴人達は仏教嫌いなんだろうか。

内裏の貴人も森の貴人も、村の神主と同じ格好だし。