こつぶがゴロゴロ。

映画とゲームと漫画の、主にネタばれ感想を呟いてます。

スターがつけられない

 ここ最近、どこのブログさんもスターボタンが見つからないという、謎の偶然が続いていた。

訪問先が全部そんな感じだったので、最近はスターボタンを外すのが流行ってるのかと不思議に思っていたら、ただ使用しているブラウザが対応していないだけだったのが判明。

11月始め頃までは押せていたから、その後にはてなブログがバージョンアップか何かをしたのかなあ。

アリータ:バトル・エンジェルの感想

 漫画「銃夢」のハリウッド実写化の映画。
原作を途中までしか読んだことの無かった私ですが、PVを観た時は「銃夢の雰囲気を再現できてる!」と驚嘆しました。
しかも、以前からターミネーター1、2のジェームズ・キャメロンが監督するという話を聞いていた為(結局違う監督が撮りましたが)、これは漫画の実写化で一番出来の良い映画になりそうだと大きな期待を抱いてました。

 

しかし、実際観てみると「う~ん…」と思う箇所がポロポロと出てくるような、そんな映画でした。

 

 アクションシーンは迫力があります。
グリュシカや他のサイボーグとの戦闘ではCGならではの派手な演出が上手いし、アリータ達の全身を使った立ち回りが丁度よい「引き」で見られるように撮られているし、カメラの切り替えを多用してアクションのマズさをごまかすようなこともなかったのも好印象でした。

 

 その代わり、アリータを始めとするサイボーグを演じた俳優さん達の本来の運動能力もありのままに撮られていて、「人間離れした動き」という印象が薄れたのが残念です。
突きや蹴り等の派手な動きの後、空手の型のようにビシッと「止め」ることができていたら見栄えが凄く良くなった筈なんだけど、ブレブレだったのがイマイチでした。
一方で、元格闘家の女性が主役を務めた「エージェント・マロリー」ではそんな部分も気にならなかったので、やっぱり格闘を生業にしてた人とそうでない人のアクションでは、こういうところで差が出てくるんだろうなと思いました。
 モーターボールの乱闘シーンは、CGとの合成が絶妙に噛み合ってる感じがあって良かったです。

 

 ストーリーに関しては、まず一番に思ったのが「なんでモーターボールに拘るの?」でした。
これ、多分原作を覚えている人ほど、そう思ったんじゃないでしょうか。

 今回の場合、アリータ達の設定が結構変えられている上、イドの元妻や亡き娘も登場し、序盤でモーターボールの練習をするというオリジナル描写を入れられてるしで、細かい設定が詰め込まれ過ぎてギチギチ状態。

そこにモーターボール出場のエピソードも詰め込んだものだから、「設定や状況を説明してるだけの場面」がずーっと続くようになり、それで話の緩急や起伏も無くなって、アリータ達の感情の移り変わりが薄っぺらなものに。

話のテンポは良いものの、軽やかすぎてダイジェストを観ている気分になりました。

もうモーターボール要素は続編に回し、原作通りマカクとの戦闘をメインに持ってこれば、テンポも丁度良い按排になったのではと思います。

 

後は最初から最後まで、ずっとBGMが流れてたのが気になりました。
無音の場面があっても良かったと思うんだけど。
アリータの大きな目も、目の周りの皮膚と頬の皮膚が連動しておらず、アップにすると違和感を覚えることがありました。


 今回は色々言ってますが、同時にこの作品を作った制作陣が銃夢をリスペクトしてるのはよく伝わりました。
再現したいシーンやキャラが多かったからこそ、全部詰め込みたくてああなったんだろうと感じるほどに。
なので、もし続編があるとしたら、雰囲気はそのままで、今度は話を急ぎ過ぎずに丁寧に追って欲しいなと思います。


 以上、銃夢を中途半端に知っている者の感想でした。
銃夢を知り尽くしてる人、または全く知らない人がこの映画を観たら、また違った感想が生まれるのかもですね。

「灼熱の魂」の感想

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もっと複雑な印にした方が良かったのでは…。


 アカデミー賞の外国語部門にノミネートされた映画。
レバノン内戦を扱っていますが、テンポ良い構成で話を展開させているので、重い内容の割にはどよ~んとした気持ちにはならないのが良い感じでした。


 カナダで育った双子のジャンヌとシモンは、母ナワルの遺言で「ジャンヌは父を、シモンは兄を探し出し、私の書いた手紙を渡すように」と頼まれます。
そして、葬儀では祈りの言葉は必要ない、遺体を世の中に背を向けるようにうつ伏せにし棺桶に収め、約束が守られぬのなら墓石を置かず墓碑銘も刻むなという、奇妙な注文も付けられます。
子供達にとってナワルは昔から変わった(おかしな)母親であり、さらに遺言書で「子供時代のあなた達(双子)は私の喉元を突くナイフだった」という不穏な言葉を残されたものだから、弟のシモンは怒りMAXです。
 さっさと普通の葬儀をして肩の荷をおろそうと言うシモンを後目に、姉のジャンヌはモヤモヤした気持ちを清算する為、母の故郷であるレバノンへと旅立つのですが、父と兄の手がかりを探っていく内に、母の壮絶な過去が浮き彫りになっていく…というあらすじです。

 

 物語は現代と過去を行き来する構成になっているのですが、過去のパートは内戦ががっつり絡んでくるので、閉塞感を覚えるような描写が集中しています。

それを軽減する役割を担っているのが現代のパートで、こちらには姉弟が現在の父と兄の痕跡を辿るという謎解き要素を組み込んでいる為、重苦しい過去編を謎解きのヒントとして観ることを上手く促しています。

 そして父と兄の行方が分かった時、母の死の原因となった理由が分かるのですが、その事実はなかなか衝撃的なものなのです。

 

 なんですが、衝撃の事実の伏線のいくつかには少しぎこちなさを感じられた部分もあり、もうちょっと自然に描写されてたらなあ、とも思いました。

 例えば、作中に何度か出てくる「1+1=」という台詞。
ジャンヌが衝撃の事実に気付くシーンでシモンがそれを言い出したもんだから、「ここでわざわざ言わせるのか…」とちょっと興ざめに似た気持ちになりました。
 この台詞って、他の人が言うのなら分かるんですが、当事者のシモンが言うと回りくどく聞こえるんです。
なんというか、シモンが脚本家の「名台詞を生み出したい」という意図を汲んで発言したような、そんな不自然さです。
まあ、それはシモンのキャラクターを壊す程のものではないので問題はないのですが、ちょっと気になったところでした。

 

 というように、強引さを感じるところもあるんですけど、それらに目を瞑るほどの価値はある映画だと思うのでオススメです。

レバノン内戦の概要を知ることもできますから。

個人的にも勉強になったので良かったです。

 


ここからはネタばれ感想。

 

 序盤の双子の態度を見るに、ナワルは双子に複雑な心情を持つが故に、彼らを素直に可愛がることができなかったのだと思われます。
時には憎い拷問人の面影をシモンに見て、感情を爆発させたことがあったのかも。
あの男の子供達というおぞましさもあって、どうすればよいのか分からないという心境で苦しみ続けてたのでしょう。
カナダで平和な日々を過ごしていても、彼女の魂は拷問人への怒りで燃え続けていたのだと思います。

 

 そんな彼女ですが、プールサイドで事実を知った後に、弁護士を通してニハドと双子に手紙を書きます。
彼女の死後に弁護士から双子へ手渡されるように手配したものの、まず姉弟がニハドへ2通の手紙を届けないと、彼らへの手紙の開封は許されないという、もって回ったような条件も付けました。

 

 メタ視点で考えれば、「真実を伝えるのにこんな回りくどいことをさせるなんてありえない。衝撃の事実の整合性の為に無理な理由付けをし過ぎ」となるのですが、あえて映画を好意的に考えてみると、ナワルは事実を知った後でも、ニハドと双子を赦すことができなかった為に、こんな方法をとったのではないかと思いました。

 

 彼女の遺言は、ニハドや双子に手紙が渡らなかった時の自身の処遇も書いていて、約束を守れない者に墓碑銘を刻む資格はないと記していました。
「約束」とはニハドを探し出すこと、何があっても愛すること。
「守れない者」はナワル自身のこと。

 

そして、ラストで渡された姉弟への手紙の内容は「あなた達のお蔭で約束は守られ、怒りの連鎖を断ち切ってくれた」という、完全に双子の行動頼りだった書き方です。
「怒りの連鎖」とは、ニハド⇄ナワルの怒りと、ナワル⇄双子の怒りのことだと思います。

 

 これらから察するに、ナワルにとっても姉弟が遺言通りに行動してくれるかどうかは大きな賭けだったのでしょう。
それでも、双子が自分(ナワル)への怒りやわだかまりを抑え、父と兄探しを行うことで約束を成就させたなら、自分と子供の間にある怒りの連鎖を断ち切ることになるだろうと考えたのではないかと。

 

 つまり、ニハドと双子に向けた愛の手紙は、ナワルが生前からそう思っていたのではなく、「遺言が果たされたら私はこの子達を心から愛せるはずだ」という、希望的観測だったんじゃないかと思いました。

ということで、双子のお蔭でナワルの遺言が果たされたことにより、死してなお灼熱だった彼女の魂はようやく鎮火。

なので、あの世にいるナワルは双子とニハドの誠意を見ることができて、3人の子供を心から愛することができるようになっただろうな、と考えています。

 

…我ながらちょっと微妙な解釈だけど、まあいいか。

少女漫画の色塗りって

 最近、少女漫画風を意識した絵を描いていて、それでやっと気付いたんだけど。

少女漫画の色塗りで影や陰が極力無くて全体的に淡い感じなのは、日本画をベースにしてるからなのかもなあ、と思った。

恐らく少女漫画の創世記で一線にいた人が日本画に影響を受けていて、その人に影響を受けた少女漫画家達が今のような形式を作ったのかな?

…なんて妄想をしてしまいました。

 

 逆に少年漫画は元々ディズニーやアメコミの影響が強そうだけど、少女漫画よりは色塗りの流行りの変化が激しいと思います。

 

 

「イグアナの娘」の感想

 最近、萩尾望都さんが文化功労者になられたと聞いて、数年前にTwitterイグアナの娘の感想を書くと呟いたことを思い出しまして。
なので、今回はちょっとだけ萩尾望都さんの「イグアナの娘」の感想を呟きたいと思います。

昔読んだっきりなので曖昧なところはあるんですが、それでも語らせていただきます。

 

 私の母が割と漫画好きだったこともあり、萩尾望都さんや山岸涼子さん等のコミックが家に置いてあって、幼少の頃から彼女らの漫画に親しんでいました。
その中でも私は山岸涼子さんが好きでして、特に彼女の描く短編は、心理描写が鋭くてごまかしも一切無く、描いてる本人すら心が傷ついたのでは?と思う程容赦の無いところがあり、読む度に衝撃を受けてました。

 

 一方で萩尾望都さんの作品も、ポーの一族やアロイス、半神やトーマの心臓等いくつか読んでいたのですが、感想としては「あまり深くない話を綺麗なタッチで深く見せるタイプの漫画家さん」という、大変失礼な印象を抱いていました(ごめんなさい)

 

 ですが、これらの後に発表された「イグアナの娘」を読んだ時、山岸涼子さんの漫画を読んだ時と同じ衝撃を受けたのです。
彼女にしては珍しくシリアスでも詩的でもない軽いタッチで描かれた漫画だったのですが、だからこそ心に沁みました。

 

 この漫画の主人公のリカは「自分の姿がイグアナに見える女の子」という奇抜な設定なのですが、その理由として妹のマミばかり可愛がり、リカには意地悪く接する母親のゆりこの存在があります。
長女のリカが(何故か)イグアナに見えるゆりこは、自分の子供だと認めたくないという気持ちが強く、一方で可愛らしい人の子である次女のマミは彼女にとって初めての子供という気持ちがあり。
結果、ゆりこはマミにはたくさんの愛情を注ぎ、リカには何かと厳しく辛くあたるという差別を生み出します。
そんな中で、母が自分をイグアナだと思っていることを知ったリカは、自身をイグアナとして認識するようになったんですね。

 その認識は大人になっても変わりませんでしたが、大学で知り合った牛に見える男性と結婚して母親と物理的に離れるようになってからは、この複雑な問題は一旦沈静化したように見えました。

 

 しかし、やがて旦那さんとの間に子供が生まれると、リカは自分の赤ちゃんが牛でもイグアナでもなく「人間」に見えることに混乱し、「異形」である子供に全く愛情を抱けない己に絶望して、嘆き悲しみます。

 

 そんな折、突然ゆりこの訃報が入り、内心それを悲しいと思えなくても義務感で里帰りをすることになりますが、お通夜にゆりこの顔にかけられた白い布をとってみると、リカは驚愕します。

 

何故なら、母の顔がイグアナに変わっていたからです。

 

取り乱した主人公が「私とそっくり!」と言うと、そばにいた親戚に「そうよ、昔からリカちゃんは母親似って言われてたんだから」と返され、その言葉に呆然とします。

 

 その夜、リカは人間の男に恋をしたイグアナの夢を見るのですが、そのイグアナが母のゆりこだと確信します。
恋心を募らせたイグアナは、魔法使いに頼んで人間にしてもらうことになるのですが、その時に「正体がイグアナだとバレたらフラれちゃうから気を付けて」と忠告されます。

 

それを見たリカは、今まで母が自分に対して冷たかったのは、イグアナの自分が生まれたことで、彼女の夫(リカの父親)に正体がバレるのが怖かったからなんだと合点がいき、子供の自分を愛せなくて母も苦しくて辛かったのだと、初めて母親を理解できた(ように思った)のです。
リカはその瞬間、「お母さん!」と叫んで目を覚まし、涙をぽろぽろと流します。

 

 そのシーンで、私も思わず涙が出てしまいました。
リカのその時の心情がとても理解できたように感じたからです。

 

 リカは今まで許せなかった母親を、夢を見ることで赦すことに成功したんだと思います。

 

心の中で、幼少の頃から受けてきた仕打ちへの怒りと諦めが大きく膨れ上がってしまい、母親を愛したい、愛されたいという気持ちは心の奥底でペシャンコになってしまって。

妹や旦那さんなど、協力してくれる人達の愛で埋め合わせができたように思えても。
自分が母親になって「人間」である我が子を愛せないことに気付いた時、リカは自分が母ゆりこと同じ道を辿りつつあることを感じ始めていたのかも。

 

 だからこそ、お通夜ではゆりこの顔が自分と同じイグアナに見えて。
きっと嫌悪し続けることに疲れていたリカは、亡くなったゆりこを見て初めて親近感を覚え、同時に母から愛情を貰うという僅かな希望が絶たれたのを実感し、自分で自分を癒して解放しようと、イグアナの夢を無意識に作り出したんだと解釈しました。

 

そうしてわだかまりの無くなったリカは、母ゆりこを反面教師として我が子と上手く接することができるようになったんだと思います。

 

 ちなみに、人種差別を扱った映画「アメリカンヒストリーX」のエンドロールで、「怒りは大きすぎて抱えきれるものじゃないから手放した方が良い」というようなフレーズが流れます。
まさにその通りだなと思うし、この「イグアナの娘」もそういう考えの元で作られたのかもしれないなと思いました。
勿論、実際は大きな怒りや憎しみを手放すのは非常に難しいことであるというのは分かってるんですけど…。

 

 この作品は実写ドラマ化されたので(私は観てないです)ドラマの方で知名度が高い可能性があるのですが、もし「ドラマ版しか観ていない」という人がいれば、原作の漫画も読んでみて欲しいなと思います。

 

 ということで、私はこの作品で萩尾望都さんのイメージが変わったのですが、でもやっぱりこの方の漫画は「イグアナの娘」のように今時の軽いタッチで描いた方が好みだな、と思います。
シリアスタッチな作品は私にはちょっと合わないかもしれない…。

隻狼プチ考察7:破戒僧の目的や水生村の輿入れについて

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破戒僧

 

 「水生の呼吸術」の説明に、「これなくば桜竜とは見えられぬ」と書いてたけど、それって元々水生村の人が輿入れするのは桜竜に会う為だったということだよね。
それならこの技を持っていた破戒僧は、元々は水生村から輿入れした者だったか(貴人が居座ってた廃寺の出身だった可能性が)、もしくは水生村から輿入れする者に対してこの技を授ける役目があったのかも。

 

そして、源の宮の貴族が若さに飢えてたり、内裏で共食い?状態になっていたことからして、実は源の宮の住人達って存亡の危機に瀕していたんじゃないかな?

このままじゃヤバイということで、本来は「お宿り石ができた村人を輿入れする」というルールを曲げ、なるべく多くの村人達を源の宮に招き入れる為に京の水を振る舞ってたのではないかと思います。

 

でも、通常なら変若水(桜竜)成分の薄まった葦名の水を長年飲み続け、体が徐々にその成分に馴染んでいって、お宿り石ができた頃にようやく桜竜に出会える(または水生の息を体得できる)体質になるという手順を踏むところを、今回は輿入れする者を即席で作ろうとしていた為、初っ端から京の水を飲まされた村人は変化に耐えられず、ゾンビのような状態になったり(多分死なず病)喉が渇いて乾いて仕方ないという中毒状態になったのではないか?と思いました。

 

池の魚が半分ナメクジのような状態になっていたりするのも京の水が川に流れてるからだろうけど、多分最近までは村の水も葦名の水と変わらない程度の薄い成分だったのではないかと。
恐らく、源の宮の者が上記の目的の為に、上流の流れを変えて村の川へ京の水がダイレクトに流れていくようにしたんだと思います。

※もしかすると破戒僧は、正体が八尾比丘尼であるところからして、かつて京の水に浸かってた魚(または赤目の魚)を食べたか、壺の中にいる貴人かヌシの鯉の肉を食べた可能性が。

 

なので、破戒僧は急激な変化に耐えた者に水生の息を伝授して岩戸に通すという役目があったのではと思うんだけど、どうなんだろう。

また、これを桜竜が望んでたのかどうかというのも、まだよく分からないところがあります。

この辺は考えがまとまれば、追記・修正したいと思います。

 

ちなみに、京の水を飲んでゾンビ状態になった人達や赤鬼が火を怖がるのは、怨嗟の炎に関係するんじゃないかなと思うんだけど、これもまた機会があれば。

FF7以降の主人公とヒロインの恋愛って

 突然ですが、この一週間、愛猫の病気でてんてこ舞いでして。
今回は、動物病院で診察待ちの時にぼーっと考えてたことを書きます。
本当にくだらない話で乱文なので、後で消すと思います。

 
 FF7以降、主役とヒロインの恋愛感情に自己中というか利己的なものが必ず含まれてるのは何故なんでしょうか。
特にヒロインはその傾向が強い気がする。
上手く言えないけど「純粋に相手に魅かれたから好きになった」というんじゃなく、「自分の心情や環境に都合の良い相手だから好きになった」という感じ。

FF7もその傾向はあったもののまだ良かったんだけど、アドベントチルドレンは最後まで完全にエゴのぶつかり合いになっていて腹が立ったのを覚えています。
 
偉そうなことを言うと、純愛の基本である「好きな相手を思いやる」という表現ができてないのではと思います。
例を挙げると色々マズいことになりそうなので今回はやらないけど。
特段ストーリー重視でもない他のゲームですらそういう部分はちゃんと描けてたりするのに、何でFFに限ってそれが描けてないのか不思議です。

わざとそういう風に描いてるのか、ただの力不足なのか、本当に謎。
 
そして今回のFF7リメイクも、コンピレーションやPVを見る限り、その傾向が強くなりそうで怖い。
私は、ゲームでは男女のリアルなエゴでなく純愛が見たい。


ちなみにそれとは別に、FF8以降、特にヒロインが物語の展開を最後まで知ってて喋ったり行動しているようなフシが見受けられ、キャラの主観と書き手の視点を混同してるんじゃないかと思わせるところがあるのだけど、これは別の機会に話せたらと思います。