こつぶがゴロゴロ。

主にネタばれ感想を呟いてます。

FF7リメイクプレイ日記 その2

 

 7番街スラムへ戻る為に列車墓場でウロウロしてるところ。
今回のティファとエアリス、性格の違いが原作より曖昧になってるなあ。
2人とも無難なキャラ付けで差異が無くなってて、原作ほどの魅力が無くなってる気がする。
それと2人が仲良くなる描写が、ちょっとわざとらしいというか、しつこい。
女同士の友情を育むというより、恋愛的な意味で距離を縮める過程を描いてる感じがして、何だかなあと思う。
クラウドセフィロスのアレなイベントといい、二次創作界隈を意識して作ってない?
思えばアドベントチルドレンの頃から、その傾向はあった気がするんだけど…。

 

 それと音楽。
原作と同じ曲を使えばいいのに、なんでFF7っぽくない新曲ばかり使われてるのか疑問。まさかアレンジ曲?だったとしても、良さを殺してると思う。
公園に行くまでのマップとかウォールマーケットとか。
もうちょっと懐かしい気分を味わせて欲しかった。

 

 そして女装イベント。
何でムッキー達のお風呂イベントを無くしたの?あれが楽しみだったのに。
それとも私がイベントを見逃してるだけ?
服屋さんのイベントもないし、男男男のキレイなお姉さんも化粧をしただけのマッチョマンになってるし。

イベントといい音楽といい、今回は原作と同じ表現を極力避けているような気がするのは気のせい?


 …う~ん。

このままだと、日記が最後まで疑問と愚痴だけで埋め尽くされることになりそう…。

FF7リメイクプレイ日記? その1

 

 発売日にプレイ開始。
今日は教会でレノを倒したところまで進めました。
突っ込みどころがあまりにも多すぎて、全部語ろうとすると長くなるのでいくつかかいつまんで。

 

 原作にあったシーンはまあまあ遊べるんだけど、それ以外(ジェシーの依頼だのエアバスターの部品を廃棄するだのetc…)は全部苦行。
ていうか、プレジデント神羅、ハイデッカー、神羅兵の「一方その頃」なイベントシーンが多かったのはなんで?
8~9割ぐらいは、描写する必要の無さそうなシーンだった気がするんだけど。

 

 街の様子もモブキャラ達のファッションも現代的…というか、どっかの洋ゲーからそのまま流用してきた感があって、とてもFF7だとは思えない。
7番街スラムなんて、南アフリカ辺りのスラム街をそのまま再現してるだけなんじゃないの?と思ってしまうほど。
そのせいで、クラウド達が別世界から来た異邦人状態になってる。
原作はモブキャラ達にも、もっと多様性があった気がするんだけど…。

 

 戦闘は体験版を遊んだ時と同じ感想。

それに加え、クラウドの戦闘モーションに、ビシっとした格好良さが無いというか、芯が通って無いというか…力強さを感じないのがとっても不満。
真面目に攻撃してるようには見えなくて、ただ剣を振り回しながら踊ってるような印象を受ける。
直前にプレイしてたゲームが「隻狼」と「ゴッド・オブ・ウォー(PS4)」だからか、モーションの軽さを余計に感じた。
原作のモーションはちゃんとクラウドの重量感を出せてたのに、どうしちゃったの?

 

 それと…。

バレットの「いくつだ?」のセリフだとか、アバランチメンバーがクラウドに一言も声をかけずに打ち上げ会を始めたりだとか、「ファーストだ」と答えたクラウドにレノが嘲たりとか。

今回、全体的に性格の悪さを感じさせるものが目立つんだけど、何なのこれ?作風なの?

原作と違って、最初から「ソルジャーを演じてるクラウド」を馬鹿にするような構成になってない?

プレイしててクラウドが可哀相になってくる。

しかも、クラウドがどぎまぎ、おどおどしてる描写がやたら多いし。
こんな描写だらけだと、精神世界で自分を取り戻したら原作よりおっとりとフニャフニャしたクラウドになりそうで心配。

 

 最後に。
今回は最初からジェシーの印象が恋愛的に強すぎて戸惑った。
私は、FF7の女の子キャラではジェシーが好きだったから、(性格が原作と変わってるとはいえ)まあ良いんだけど。
でもこれだと、ジェシーがティファとエアリスの存在をくってしまうことにならない?と心配。
特にエアリスの場合、今回のストーリー構成だと再登場するのがだいぶ後になってるし、ここからエアリスがヒロインとして巻き返そうとしてもなかなか厳しい気が。


以上。
先が不安で仕方ない1回目のプレイ感想でした。

イン・ザ・トール・グラス の感想

 
 謎の展開についていくことしかできない、時間ループ物のホラー映画。
原作はスティーブン・キングで、監督は「CUBE」のヴィンチェンゾ・ナタリ

観る間「???」となりつつも、どこかレトロなものを感じさせるBGMと、泥んこだらけの出演者を見ると「あ~、昔のホラー映画ってこんな感じだったよね!」と懐かしい気分になりました。
全体的に80年代辺りの演出を思い起こさせるので、あの時代のホラーが好きな人にとっては、たまらない作品だと思います。

 

 ただ、謎が謎を呼ぶ展開なので、最後まで観ても「…で、あれはどういうことだったの?」とモヤモヤが残る映画でもあります。
登場人物の殆どがまともな思考を持って動くので、人間関係や心情は把握しやすいようにできてはいるのですが。

岩とか草とか、ホラーな世界観を作り出してる部分は抽象的に語られる為、「そういうことか!」と合点がいくような場面が最後まで出てこないんですね。
なので、舞台背景がはっきりしないのは好きじゃない、という人にはあまり向いてない作品だと思います。

 

 また、ヴィンチェンゾ・ナタリといえば「CUBE」や「NOTHING」など「人の心理を的確に描き切ることに、恐ろしく長けた監督」という認識が私の中にあるのですが、今回はその部分がちょっとだけ雑だったように感じました。
ロスの変貌が劇的になる為にも、草むらに入る前までに彼の性格が分かる描写をもっと増やして欲しかったなと思います。

 

 ということで、「100点満点の映画」というわけではないんですが、雰囲気作りはとても上手いので、ホラー好きなら観て損はないと思われます。
死霊館」や「インシディアス」のパトリック・ウィルソンも出てますし。

考察好きにもたまらない出来じゃないかな。
私は好きです、この映画。
 


 ここからネタばれ感想。

 

 物語の初めから既にループしてる状態なので、「物事の始まりはどこからか?」「あの草と石はなんなのか?」と疑問だらけになる上、「そもそも設定があやふやの状態で作られてるんじゃないか?」という疑念も沸いてくるのですが、私なりの考察を書いてみます。

 作中、岩に触れた者は草の言葉が理解できるようになり、草むらの抜け道も分かるようになることが描かれています。
また、草と同化することで、色んな場所に姿を現わしたり消えたり出来ることも示唆されています。

 そしてロスの言動から察するに、あの岩の場所に導かれる者は何かしらの迷い(悩み)を抱えていることも分かります。
岩に触れると迷いが吹っ切れるようなのですが、そうなると草むらから出ようとは思わなくなり、草と一体化するのを望む、という思考に傾いてしまう様子。

   物語のクライマックスでは、ロスはトラビスに対して「君は僕と似ている、だから救済したかった」と言います。
そんな二人に共通しているのは、バンドのボーカルだったことと、恋人が妊娠した為に夢をあきらめるか否か選択を迫られた、ということ。
ロスは恋人と子供を養う為に夢を捨てて不動産業者になり、トラビスは夢を捨てきれなくてベッキーに中絶を促す、という選択を行いました。

  でも、草むらに入ってからは、この二人の選ぶ答えが逆転します。
ロスは「(ゴスペル・バンドで)イエスと共に世界を変えたかった」という昔の夢を「救世主の岩と共に世界を変えたい」として実現しようとし、トラビスは夢よりもベッキーとお腹の子に「助かって欲しい」と願うようになって、トービンを脱出させベッキー達の時間ループを阻止しようと試みます。

 そんなトラビスに手を引かれトービンが導かれた先は、「救世主の黒い岩の教会」の奥にある開かずの扉の部屋。
これが意味するのは、恐らく岩に触れた者が「相手を助ける」という(人間から見て)正しい選択をすれば、助けた者を通して他の迷える人達も救われるという「真の救済」が成立し、触れた者は「本物の救世主」となっていく、ということなのではと思います。

 ただ、それはあくまで「人間側の正しい行い」であって、「黒い岩にとっての正しい行い」は、ロスが言ってたように草むらと一体化することなのかもしれません。
なので、あの教会を建てたのも、迷った人間達のやり取りを上から眺めて楽しむような、悪意ある存在だったのではないかと思います。

 

他に気になった細かいところも。

●OP等に出てくる草むらの向こうのボーリング場は何なのか?

 元は普通のボーリング場だったものの、草むらの範囲が一気に拡大した為、あの場所も浸食されてしまったのではないかと思います。
なので、その時ボーリング場にいた人達も迷い込んでしまったのではないでしょうか。


ベッキーが度々見る白昼夢らしきものは何なのか?
 恐らく、ベッキーのお腹の子供が前回の草むらでの出来事を覚えていて、母体を通して訴えていたのではないかと考えられます。
OPでカルがハンバーガーを食べる様子を見てベッキーが吐いてしまったのも、岩前の出産後に「草(赤ちゃん)」を食べたことを連想させたからではないかと。

あるいは、もしかするとベッキーも、かつて岩に触った時間軸があったのかもしれません。
トービンがボーリング場で唐突に「僕たちは草と一体で何度でも生き返って殺されるんだ」と言い出すことからも、時間ループ中に一度でも岩を触ったことのある者は、前回の記憶をうっすら持ち越してるフシがあるので。


●最初に草むらに入ったのは誰なのか?
 今のところ、二つの可能性が思い浮かぶのですが、今回はひとつだけ述べてみます。
序盤でカル&ベッキー兄妹は、トービンの声を聞いて車を教会前に停め、草むらに入ります。
続いて二か月後、トラビスがやってきて草むらに入る時、兄妹の車はそのまま放置された状態でした。
その翌日に、犬のフレディを追いかけてロス一家が草むらに入った時、トラビスの車は残ったままでしたが兄妹の車はありませんでした。

更にその翌日~数日後、カル&ベッキー兄妹(その2)がトービンの声を聴いて草むらへ入る時、トラビスの車は消えていました。
ここまでくると、「じゃあロス一家が乗っていた車はどれ?」と思ってしまうのですが。

電話中のロスが現れた方向から考えれば、兄妹の車より奥に停められてた銀色の車が、それである可能性が高いです。
そしてその車は、兄妹が教会に来た時もトラビスが教会に来た時も駐車されていました。

 というわけで、ループの起点となったのは銀色の車に乗っていたと思われるロス一家であり、次に兄妹、最後にトラビスの順番だったのではないかと思います。多分。
 

以上です。
宗教やカンザス州の風俗史に詳しい人なら、もっと違う解釈になるのかもしれませんね。

FF 7リメイク体験版

FF 7の体験版をやってみた。

操作性はまあまあだけど、戦闘がなんか…。

今回はクラシック(を選んだのにアクションしてた)で遊んでみたけど、予想通りパラサイトイヴ1とフロントミッションオルタナティブがベースになったようなシステムで、コマンドも無駄に多い気がする。

雑魚敵は割と柔らかいから◻と△ボタンを適当にポチポチすれば勝てたけど、あんまり爽快感を得られず。ガードスコーピオンは堅いから戦って疲れてしまった。

戦略性を重視する人ならこのシステムは良いのかも知れないけど、私みたいに直感的な操作を重視する者にとってはきつい。

原作では戦闘がシンプルだったから簡単にプレイできたんだけど、今回はこの操作がラストまで続くことを考えると…。

製品版はクラシック一辺倒になりそう。

クラシックも自動モードで眺めてると長いなと感じるんだけど。

 

演出も原作と比べると余計で不自然な箇所が多い。

素直に原作通りのテンポやカットを完全再現した方が絶対に見栄えが良かったと思うのに、何故わざわざ変える必要が…。

また今回、PVでバレットのテンションに違和感を覚えた理由が見えた。

それは、クラウドに対する声の抑揚や軽口が、まるで打ち解けてきた相手に話すような感じだからだということ。

これはジェシーも同様。

多分ハリウッドのアクション映画でよくある、洒落た言い回しや軽口を意識したんだろうけど、不謹慎レベルで滑ってる。

 

これはちょっと私にとって不安を覚える体験版でした。

予約はしてるけどね。

 

今時の日本の映画って

 今年のアカデミー賞は、韓国の「パラサイト」が作品賞、監督賞、脚本賞を獲るという、歴史的快挙を成し遂げたらしいですね。

私はこの映画を観てないので、どれだけ賞に相応しい作品なのかは分からないのですが、受賞の反応を見ると、この映画は賞を獲っても不思議じゃないほどのクオリティだったという感想と同時に、今の邦画…というかエンターテイメントに苦言を呈する意見もたくさんあって、未観賞の私にとってはそっちの方にうんうんと頷いてしまいました。

 私はもともと邦画を観るタイプではなく、ここ1,2年だと思い出す限りでは「超高速!参勤交代」と一昨日テレビで観た「翔んで埼玉」ぐらいなので、今から言うことは「浅い知識で語るな!」と怒られかねないものなのですが、とりあえず超ニワカなりの意見を即席で述べますね。

 

 韓国映画って、昔も「シュリ」オールド・ボーイ」「親切なクムジャさん」など、日本で割と話題になってましたよね。

私は韓国映画も邦画と同じくらい興味が無かったので(今でもそうです)、実際観たのは「シュリ」だけだったのですが、それでも当時は予想以上のクオリティの高さに「ちょっと、日本の映画はこれを観て危機感覚えないとやばいんじゃ…」と思いました。

 当時は北野武監督がカンヌやヴェネチアの常連となっていた頃だったし、「誰も知らない」だとか「たそがれ清兵衛」だとか、少し後に「おくりびと」が外国語アカデミー賞を獲ったりもして、日本映画も世界に認められていた時期でもあったのですが。

でもその時の邦画のイメージは「派手で軽過ぎる」か「地味で重過ぎる」の二極ぐらいしかなく、「丁度いい按排のバランスを保ったエンターテイメント映画」が無いように感じたんですね。テンポもいまいちでのっぺりした感じなのがスタンダードだったし。

その点、韓国映画「シュリ」は程々の重さを保ちながら流れるように展開していく娯楽作品となっていて、そういう部分が最近の日本の映画では見かけなくなったものなのではと思いました。

 

 今でも映画祭で賞を獲る邦画はあるのですが、それ以外に漫画の実写化やアニメ映画など、10代辺りに向けられた派手で軽めの作品が以前にも増して影響力を持っているように思います。

今はネットの影響もあってか、10~20代辺りにオタク文化が随分浸透してきていて、推しキャラやアイドル、俳優目当てで観る人も多い様子。

その人達向けに特化した映画も勿論あっていいとは思いますが(私も旬を過ぎたとはいえオタクですし)、でも最近は利益優先でそっち方面に偏り過ぎてるのではないか?と考えてしまいます。

まあ、本当はきっと真面目にクオリティの高い娯楽映画を作りたくてもできない、何らかの事情があるんでしょうけど…。

 

 ということで、今回のアカデミー賞を獲った「パラサイト」が、娯楽作品として仕上がってるのかは分からないのですが、日本の映画関係者はこのニュースで覚醒して奮起して欲しいなと思います。

だって、モノクロ時代に作られた黒澤監督の作品はちゃんと娯楽映画になってるし、今観ても素晴らしい演出なんだもの。

きっと今の映画関係者も本気を出せば作れるのではと思いました。

 

ちなみに、NETFLIXの「全裸監督」2話までは、日本ドラマとは一線を画してるレベルなのではと感じました。

日本版「コールドケース」もカメラワークがわりと洗練されてたような気がします。

 

「パラサイト」に関しては、DVDになってから観てみようかな。

「ジョーカー」の方はまだ観る気になれないけど…。

 

 

ライフ の感想

ネタばれ感想。

 

 火星探査機が採取した土をISSで調べたら、単細胞の生物を発見。
初の地球生命体を確認したことで、ISSのクルーも地球の皆さんも大喜び。
その記念として、生命体は「カルビン」と名付けられました。
カルビンはすくすくと育ち、ついには生物学者のヒューとコンタクトらしきことも行えるようになり、そんな彼(?)の姿を見て、クルー達は感動もひとしおです。
 しかしある日、カルビンは自分を慈しんでいたヒューに対し、今までとは違う意思表示を行います。
実は、ヒュー達を親とも味方とも思っておらず、ただの捕食対象としか見ていなかった、ということを。

 

 

  真田広之さんの他、ジェイク・ギレンホールライアン・レイノルズなど、今をときめく俳優達が揃い踏みであるこの作品。

さぞかし画面がキラキラとした絵面になるのだろうとおもいきや。

そんな俳優陣のことを忘れる程の「地球外生命体にイライラする映画」でした。


ブロブ」や「遊星からの物体X」みたいに視覚的に凄いわけでもなくワクワクするような展開も無く、エンターテイメントとして見ると物足りない、そんな作品です。

 


 舞台が狭いISSの中ということもあってか、生命体との攻防も必然的にスケールの小さいものになっており、無重力状態でふわふわ浮きながら逃げたり抵抗したりするので、観ている方も苛々に近いもどかしさを感じるのと同時に、話の展開に締まりが無く間延びした印象を受けました。

 

 せめてISSの一部エリアにでも重力を発生させて(今の技術で可能なのか不明だけど)、その場所でクライマックスを迎えるようにしていればすっきりできたのかも。

 

 また、カルビンはタコをちょっとだけ大きくした程度の生物なのですが、その体長のせいか次々にクルーが襲われるシーンを見ては「なんでこんなチマチマした奴に人間達が翻弄されないといけないんだ」という気持ちにさせられます。

クルーを追い詰めるやり方も何となく意地の悪い人間を彷彿とさせるし、「こんな奴を人間の脅威と認めるのは癪だ」と思わせたんですよね。

人間側が友好的に接していたのに、カルビンはその好意を仇で返す行動に出たように見えるところも、そう考えてしまった一因なのかもしれません。

 

人間達の脅威としては物足りない見た目だけど、しっかり人間を陥れて翻弄していくカルビン。

仮にSFパニック映画という認識無しで観ても、やっぱりイライラさせられることには変わりなかったんじゃ?とも思います。

 

 ただですね。
作中、ヒューが「カルビンに悪意はない、生存するために攻撃してるだけだ」と言ったり、また別の場面でミランダが「これは理性でも科学的でもない、あいつ(カルビン)が憎い」と言う場面があるのですが、これらの台詞から監督は、わざとカルビンに対してそんな気持ちを抱くよう、狙って作ったんじゃないかとも思います。

私たちの中にある無意識レベルの差別や一方的な好意の押し付け。
優位な立場にいる者なら誰でも抱きやすいそれらの感情を、あぶり出そうとしたんじゃないかと。

 観ていた私がカルビンを「恐ろしい地球外生命体」と認識する以前に「人の好意を無碍にした奴」だと思ってしまうのも、彼の最初の姿がいかにも「人間が庇護しないと生きていけない存在」に見えたからだろうし。
そういう意味で、考えさせられる映画でもありました。

 

 でも…。
監督が生物に対する人間側の驕りだとかを風刺する意図があるのなら、ミランダを宇宙に彷徨わせるラストはやめて欲しかった。
デビッドが地球の海に漂着するのはいいとして、ミランダは爆発か何かで死んでしまう展開で良かったのに、と思います。
だってあれじゃあ、ただ観客の心をかき乱したかっただけの、悪趣味なものにしか見えなかったんだもの。

創竜伝がまだ続いてたなんて

 昨日の桜竜の考察をUPした時にふと創竜伝を思いだし、ちょっと検索してみたら去年新刊が出ていたことにびっくり。

てっきり未完のままフェードアウトするのかと思ってました。

私が最後に読んだのは12~13巻(確か崑崙から日本へ帰ったところだったような)だったけど、もはや竜堂兄弟が日本から脱出した理由もおぼろげになってしまった…出すのがあと10年早ければなあ。

英伝薬師寺涼子も今は手元にないし。